2017年10月6日

名月の森



 仲秋の名月に、人はどうしてこうも惹かれるのか。毎年その宵だけは特別な過ごし方をしたくなる。北陸の秋、滅多に見られない十五夜が顔を出すならと、二年ぶりのチブリ尾根へ。名月の森を歩くことにした。

 とは言いつつも、深夜の誰もいない山奥をとぼとぼ歩く己れの姿を想像するだけで、実は今でも単純に怖さが蘇る。ところが実際に歩いて、ヘッドランプの灯を落とし、辺りを見渡し、森閑たる闇に包まれてみると、実に不思議なことに、これを安らぎというのではないか、とも思える感覚に浸っていた。むしろカサコソと落ち葉を踏みながら歩いているその時間に、恐怖感にも似たいささか落ち着かない気分に包まれた。だからだろうか、キョロキョロして気を紛らわせ、まるで見つけられるのを待っていたかのような場に出くわすと、ほっと一息、胸を撫で下ろすことになる。三脚を立て、静止する長時間露光の間、日常を離れた、どこか遠い、ちがう世界に立っていることを、どうやら喜びとして感じていた。

 歩くことに始まる動作、行動の類は、動物が生きるためには不可欠な要素だろうが、動くことが生きること、というわけでは決してない。寂として佇むことができる人間には、野生が獲物を見据え構える姿勢とは随分ちがう、高度な精神性が宿っている。生きることとそれは、かなり重要な繋がりを持ち、生きることの支えにもなり、加えて死にさえも何らかの力を発揮するのではと思える。

 昨晩、病床に伏せっていた旧友がこの世に別れを告げた。久しぶりにこのブログを書く気になったのも、そのせいだろう。

 末期の食道癌と診断され、抗癌剤治療のために入院している間、三度見舞った。久しぶりに顔を合わせるや、「お前の方こそそんなに痩せて大丈夫か」と却って気にかけてくれ、「何だか治るような気がするよ」とまで言って爽やかに笑っていた。二度目の折は、抗癌剤が体を傷つけているのだとかで、打って変わって元気がなく、試食用に持参した酵素玄米を手渡し早々に引き上げた。三度目は、ほんの数日前のこと。ぐったりとして、息苦しそうで、何度も痰を取り、なのに自分を元気づけようとでもするように、あいつらしく冗談もこぼして、これからはもっと頻繁に見舞ってやろうと思い直した矢先だった。

 無声音でしかも含み声だから、この頃遠くなった耳には聞き取れなくて、ろくに会話にならず、それではと足を揉んでやった。気持ちいいのかどうでもいいのか、表情を変えることもなく、それでも、こっちも揉んでくれとばかり足の位置を変えたり、半ば眠るようにして。「お前どこでそんな技、覚えたんだよ」。「足揉みのことか。昔からだよ、家族の足揉み」。今思えば静かで、いい時間だった。

 友が差し出す手を、そうするしかなくて自然に握った。「よくわからんけど、男の手でもいいから握っていたくて」。そうか、悪かったかな、と答えて、ひととき黙ったままで固く結び合った。力を入れたり抜いたり、震えたり、無意識にそうしていたような、それとも、生者には分からない、死を前にして感じているものがあり、静寂に包まれた個室で友は手からそれを伝えようとしていたのか。でもそれは、友のように、何だかよく分からんものなのかもしれない。

 不安、不気味、恐怖などというものは、なるべくなら遠ざけていたい感覚だろうが、それらを超えてでも覗いてみたい世界も確かにある。日常という現場に埋もれるのではなく、たとえ日常であっても、己れの内なる深みを旅するようなひととき、あるいは揺れる心の動きや言葉をつぶさに感じ取る意識。それらがどんなに醜いものでも、吐きそうなほど忌み嫌うものでも、否、だからこそ深い水底へと誘うとば口を持っていそうな、そんな世界が、日常に隣るものとして常に横たわっている。

 友は最後には癌患者だったが、それが自分の全てではないとも言った。あいつは多分、大勢の友が集って笑った店で、もちろん病院ででも、静かに一人旅をしていたにちがいない。これからもきっとしばらく続けるんだろう。

 懐かしい。あいつとは何度も海外を旅した。当時頻繁にあったタウン誌の取材でのことで、何をしても自由、動いたまま、経験したままを撮り、記事にして、まったくもう、スリルがあって楽しくてしようがなかった。という同じ時空を生きた仲だから聞きたかったことがある。今どんな気分なんだよ、って。

 合掌。

 
 










2016年12月2日

老後の蓄え



 人は老いるにつれ蓄えが必要になるもののようで、そのとば口に立つ今、何を蓄えようかと思案したあげく、言葉にした。言葉を蓄えるという意味は自分でもまだよく掴めていないけれど、余生を生きるにはとても重要な気がする。バブルの時期に面白くなった仕事が重なり分不相応に得た金で次々と機材を購入した。それがはじけて後は、使う機会のないがらくたがごろごろ残り、そのほとんどを近所のカメラマンにくれてやった。金も仕事も機材もおまけに甲斐性もない凡夫は、だから言葉を選んだのかもしれない。

 蓄えは先行きの不安を解消するためにあるんだろうが、金がすべてを解決するわけでないことぐらい誰もが知っている。ましてやあの世に持参できるわけでもない。突き詰めれば、生きることと喰うことを同等に見るか、それとも生きる意味とか価値とかをお前ならどこに求めるのかと考える、という生き方のちがいなのではないか。吹けば飛ぶよな人生に果たしてどれほどの価値があるか。それを探りながら老ぼれて行くためには、やはり言葉こそが支えになる。

 言葉を蓄えるために、「小説の書き方」を学ぶ、孤高の作家の、丸山健二塾を選んだ。否、選んでもらえたのはこの凡夫で、ただでさえ先行き不透明な暮らしを顧みず、必要な入塾費になけなしの金を注ぎ込んだ。念のため家人に相談すると、どうせやるんでしょ、と一言返ってきただけだった。なんとも情けない。いつまで青臭いままで夢を見ているのか、言葉なら金を使わなくても操れるではないか、夫婦でありながら互いを尊敬し尊重する人であったか、など次々と複雑な思いが湧き上がり、今も燻り続けている。

 迷いはじめた最後はいつもこうだ。このままやらずに生きてそれで後悔はないのか。束の間の人生を悔いなく生きるためにカメラマンになり、あの時もこの方に、同じような言葉で告げたのだった。好き勝手に生きて死ねばいいと、思われて仕方ない人生に、ほとんど愚痴もこぼさず付き合ってくれた。償いは、どうせ人生など片時の幻でしかないなら閃光のように輝いてみる、ということかと、これもまたおのれの都合で考えている。

 撮るつもりでいる者がなぜここへ来て書くことに精進するのか。少なくともこれから一年は払い込んだ大金を足枷として、しかも不安定な暮らしに一切動ずることなく真剣で臨むつもりだ。書くことは撮ることと同じように、もしかするとそれ以上に見つめることがまず必要になるだろう。対象は外にばかりあるでのはなく、内にもさらには見えない領域にも広がって行くのだろう。その時、たぶん老いさらばえて行くことは何よりの宝になるはずだ。

 不安を減らすために人は金を蓄える。ならば、書く人は不安を材料に書きながらしぶとく生き延びる。だがただ書くのでは所詮は独りよがりで陳腐なものになるのは目に見えている。どうせなら尊敬すべき先達の道に一度は交わり、教えを請い、書くとはどうすることなのかを覗いてみたい。

 書きもしない今から血肉が震え、これこそが生命力なのではと、想像するだけで、この道は歩き甲斐がある。大金をゆうちょ銀行口座間の手数料無料を利用して送金し終え、半ば呆然としてATMを離れた。青味がかった厚い灰色の雲を背景に架かる虹が鮮やかに目に飛び込んできた。前を見て、胸を張って、郵便局の裏の家へと帰った。











2016年5月11日

日常に沁みて






 感動などでは決してない。共感するにはレベルが高すぎる。なのに体内にまで深く沁み入るように、忘れられない一冊になりそうだ。鬼海弘雄写真集『TOKYO VIEW』、『東京模様』とも名付けられている。写真家と発行者が何度も交渉を重ね高精細印刷技術を駆使したという価値ある仕上がり。それが一枚一枚の写真の力をさらに引き出しているのはまちがいないけれど、写真集の中に、まるでその風景が実在しているかのような錯覚が生まれ、見ている者自身も町をふらふらと彷徨い歩いている印象へとつながる、まことに不思議な一冊だ。

 写真家を目指しながら所蔵している写真集は数えるほどしかない。しかもそうそう何度も開かないときている。ひっくり返るような衝撃を受けた『GENESIS』でさえ同じ扱いだ。『TOKYO VIEW』はなぜ何度も見たくなるんだろう。窓際で見ているときだった。差し込んできたカーテン越しの陽光で写真の陰影が変わった。さらに深みが増したと言っていいかもしれない。それは、歩き続け何十年と撮り続けた写真家の居た時空間に、いまここにあるちっぽけな日常が重なった瞬間でもあった。理由がわかった。慈しむべき日常がここにもあることを、写真集が教えていた。きっと明日もまた開くにちがいない。感動でも共感でもなく、愛おしい日常のために。

 『TOKYO VIEW』には人が登場しない。気配があるだけだ。誰もが撮るかもしれない布団や洗濯物がしばしば捉えられているけれど、多くはこの凡夫なら見過ごしてしまうほどの町の片隅を切り取っている。その中でひときわ印象に残ったものがある。キャプションには「投げられたボール 1975」。階段のある路地に惹かれた写真家がハッセルを構え覗き込むやボールが画面に飛び込んできたんだろうか、傾いた画面がさらに動きを増幅している。

 撮っていると、こういう瞬間との出会いがよくある。鳥や風などがいい具合に画面を構成するように飛び込んでくる。けれど、それを捉えたと感じた経験などほとんどない。ボールの写真はだからすごいと言いたいのではなく、風景を求めて彷徨う写真家を、もしかすると風景のほうで待っていたのではないか、という印象がこの『TOKYO VIEW』にはあると感じるからだ。





 写真の世界の深さに戸惑うばかりの日々が続いている。偉大な方々の作品にふれる度、その度合いが増して行く。もう撮れないかもしれないと、すでに覚悟まで用意した。ここでも救いは発行者の佐伯剛さんの言葉だった。

 「一般的には、シャッターチャンスを逃さないために常にカメラを持ち歩いているのがいい写真家だと思われているが、鬼海さんは、カメラを持ち歩かない写真家だ。鬼海さんは、写真を撮る時間よりも、物事を見つめている時間と、考えている時間の方が、圧倒的に長い。
 自分の中にないものは撮れない。だから、いい写真を撮ろうと思えば、自分を豊かにする努力以外の近道はない。はやりのワークショップや、メーカー主宰の写真教室では、そういう大事なことを教えてくれない。その真理は、写真にかぎらず、どんな物作りにおいても古今東西同じだと思う」。

 鬼海さんと同様に考えることなどできるはずもないけれど、撮れないでいる今、撮らない代わりに、撮るための経験を重ねているんだと自分では感じている。福島の子供たちと過ごす保養キャンプも、能登の家じんのびーとで作り出している田舎暮らしも、そしてこのなんということもない日常も。

 窓際で『TOKYO VIEW』を見ていた翌日は、老いぼれて行くばかりの両親の結婚記念日だった。結婚した翌年にこの息子が生まれたから、63周年になる。今ではすっかり愛機になったローライで記念の一枚を撮った。撮ることで、感謝の気持ちに代えたいと思った。自分勝手と感じるおふくろが実はあまり好きじゃない。おやじも毎日テレビの前に座っているだけ、毎度毎度の病院通いに同伴するのが鬱陶しくなることもある。

 日常を慈しむとはどういうことだろうか。この両親が出会い結婚しなければ、もちろんこの愚息もここに存在せず、こんな駄文を書いていることもない。慈しむべきものは、見えない糸のようなものかもしれないと、ふと思う。

 短いのが気に入って毎日のように読んでいる鷲田清一氏の「折々のことば」の今日はなんとも奇遇だ。

 「家屋はたしかに安全性を保障するもの、嬉(うれ)しいにつけ、悲しいにつけ、いつもかくれ場所(ヨハン・フィッシュアルト)

 家は、人がおびえることなく身をほどき、くつろげる場所。強い信頼で結ばれ、『われわれ』という親密な関係の中に浸れる場所だ。けれども『兄弟は他人のはじまり』と言われるように、それは、深刻な葛藤が生まれ、たがいに他者であるということが至近距離で思い知らされる場所でもある。O・F・ボルノウが『人間と空間』で引いている16世紀ドイツの詩人のことば」。

 慈しむとは、たぶんお気に入りの対象を愛でることを越えている。自分自身を含めたあらゆる存在に向けて、むしろ好ましいと感じられない対象をこそ、己の全体で包み込むような感覚なんだろうか。ほとんど好き嫌いで生きてきたここまでの長い日々を思うと、今撮れなくなっている状況がさもありなんと頷ける。

 写真は見える対象を撮ることしかできないけれど、撮ろうとしているもの、少なくとも感じているものは、たぶん見えないんだろうと薄々感じてきた。『TOKYO VIEW』に出会いわずかこの数日の間に、静かに内で変わりはじめているものが確かにある。どこにでもある日常がここにも当然あり、どこの家族にもありそうな諸々でごったがえし、日々それらに翻弄されている。ただこれからはすこし違う見方、感じ方、考え方ができるかもしれない。雑多な暮らしの表層に惑わされ、このまま死んで行くのではあまりに情けなくないか。写真家を目指す前に、まずは人であれ。それも見えないものを見つめる人であれ。『TOKYO VIEW』がそう囁いている。

 衝撃的な出会いは熱が冷めればすぐにでも忘れ去るけれど、じわじわと日常に影響し続ける静かで沁み入る出会いは生きる力にもなる。そんな出会いが写真にもあるのだと、はじめて知った。










2016年4月20日

コミュニティ


能登の家じんのびーとの田んぼにて


 福島の子供たちを応援するFKキッズ交流キャンプの新しい展開を目論んではじめた小さな上映会、「FKシネマ」と名づけてこの半年近く20本ほどの作品を上映した。ほとんどいつもお客は数人、ゼロという回も何度もあった。自分が観たいから思いついた場でもあり、人を集める努力をしていないのが最大の原因だろう。いくらネット上で告知しても、個人的なつながり、あるいは人間としての信頼度が足りないということがあるかもしれない。

 ところが春になって共催の声がかかり、どちらも盛会だった。「金沢エコライフくらぶ」と、「コミュニティトレード al 」の場と人を借りての上映会を経験し、一人の力の限界を感じている。団体、組織というものに所属するのは好みじゃない。けれど、人は一人では生きて行けないことも十分に理解している。つながり、連携、共同、協同あるいは協働、それらは生きる場であり、生きるための礎にもなるだろう。

 al の前につくコミュニティの意味を考える。地域社会という集団、共同体の中でだれもが生活している。意識せずとも場があり、自ずと所属し、なんらかの恩恵も受けている。視点を変えて、個から地域に貢献する流れを大事にすると、地域じたいはどうなるだろうか。町内会のお世話のほか、さらにそれぞれの得意を活かした関わり方が広がれば、そこで生まれる場の力がまた個に返ってくるかもしれない。

 今回共催した映画は、ファースト・ファッション界の闇を描いた『ザ・トゥルー・コスト』。al に寄せられた数々の鑑賞後の感想から、世界を見渡すことの意義と、それを生活に反映して生まれる波及効果が想像できる。

 忘れてならないのは、問題がひとりファスト・ファッションの業界だけに留まっていないということ。『ザ・トゥルー・コスト』に限らず、FKシネマで上映したドキュメンタリー作品のほぼすべてが世界中の問題をするどく抉り出している。利益最優先はグローバル企業ばかりか世界各地にあふれかえり、苦しむ貧困層を踏みつけ成り立っている。果ては個々の暮らしはどうだろうか。まずは我が身と、だれもがなんの疑問も挟まずに生活を描いている。コミュニティを考えるとは、まだ意識に上らないその疑問に向き合うということでもありそうだ。

 FKキッズが無償でお借りしている能登の家じんのびーとでの米作りが、2年目を迎えた。去年はキャンプで野良仕事に集中できず散々な結果に終わった。志向する自然農には作物に任せるという捉え方があり、どうやら放任することと勘違いしていたような嫌いがある。自ずと自らの力で成長する作物に人が関わるとはどうすることなのか。始めたばかりの素人にはわからないことだらけだが、今ひとつ感じているのは、育つ環境をほんのすこし調えてやること。たとえば草刈りはどうやらとても重要だ。稲に限らずどんな作物も、ことに幼いころはたくましい草たちに負けてしまう。もちろん無肥料無農薬、でも地力が乏しいなら米ぬかや油粕は必要なようだ。

 田畑に立つと、ここもまたコミュニティであることを実感できる。半端でも片時地域に居る一人として、さらには身近な自然界の一員として生かされ、はたらいていることだけで生きている実感がわいてくる。痛む腰を労りながら黙々と鍬をふるうとき、この一瞬がコミュニティにどんな貢献をしているかと想像した。人と人、人と自然のつながりが時空を超えてしまうなら、必ずやなんらかの影響を及ぼすにちがいない。大事にしたいことは、ただひとつ、なるべく我欲を捨て去ることだろうか、コミュニティの輪の中では。










2015年10月12日

デコ屋敷




 三春に行くんだったらデコ屋敷に案内してあげる、と郡山の友人ともこさんに誘われるがままに付いて行った。観光地にはさして興味は湧かなかったけれど、平日のせいか閑散として、村の往時を偲ぶにはうってつけの少し肌寒い日和。来てよかったなあとすぐに感じた。二三軒ある店の中をのぞくといつかどこかで見かけたことのある三春駒や色鮮やかな三春張子などの人形たちがぎっしりと並んでいた。案内文を読めば人形作りの起こりは三百ほども前で、観光化されているとは言えこうして今も脈々と当時のまま受け継がれていることに少なからず感動した。人形を作る集落があったなんて、できることならタイムトラベラーになって昔の様子を覗いてみたい気がした。各店にはつい最近まで看板むすめならぬ看板おばあちゃんがいらしたようで、絵付けをしている写真が飾られていた。

 仕事場を覗くと、頬っ被りをしたおばあちゃんがひょっとこの面に黙々と下地を塗っていた。懐かしいと感じたのはなぜだろうか。老婦が働く姿はいつどこで見ても美しい。何枚か撮らせてもらった。横で紙張りの仕事をしていた女性がいろんな話をしてくれた。おばあちゃんは八十を過ぎて、早朝の畑仕事を済ませたあと毎日四十分ほどかけてこの職場へと歩いてくるそうだ。この土地とよその町とではもしかするとちがう時間が流れているのではないかと思えるほど、なんとも豊かな、ゆるりとした心持ちになった。福島の知らなかった一面に出会い、またひとつ好きになったようだ。

 地球規模で流れる時間を捉えることができたらと、ふと思った。人が生まれ死ぬまでの時間はあまりに短い。けれど、一日なにものかに打ち込む人のそれには長短では計れない別の次元が存在しているのではないか。何十年とつづけてきた手慣れた仕事ぶりは俊敏だが、決して急いでいるわけでなく、むしろ時間が止まっている気さえした。不思議な土地だ、このデコ屋敷。

 二時間ほどもいただろうか。共に過ごしたともこさんとふたりの子どもたちに別れたあと、これからはまた新しい出会いを求めて福島を回ってみたいと思った。放射能汚染に悩まされる子どもたちを応援する保養プログラムが四年目に入り、いま初めて新しい気持ちになっている。生きている時間に、生きている時間だけではない、より広大な世界を覗くような旅をしてみたい、この福島で。















2015年10月9日

福島の日常




 「ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ」の同窓会に参加した折、郡山市内の幼稚園で開かれた写真教室の講師をつとめてきました。対象は若いおかあさんたち十数人。事前にお願いした課題の写真をみんなで鑑賞しながら感想や意見も交わしました。テーマは「家族の日常」。どの写真も、我が子を慈しむおかあさんのあったかなまなざしで捉えられていました。放射能汚染さえなければほかのどの町とも変わらない日常のシーンを見ながら、ちょっぴり複雑な気持ちにもなりました。

 折しも昨日、「福島の子供の甲状腺がん発症率は20〜50倍」という分析が公表されました。あれから4年と半年が過ぎ、福島の日常は昔と変わらないかのように営まれています。地域によっては除染土などを入れた黒い大きな袋が山と積まれる異様な風景が広がっていますが、人の暮らしはたとえ戦争にあっても営まれ、家族はより仲睦まじく生きていくしかありません。

 写真教室で伝えたかったことは、上手になるための技術的なアドバイスばかりではなく、撮る前にあるはずの、「見つめる」という態度でした。当然のように過ぎてゆく日常の風景でもよくよく見つめると、これまであまり意識に上らなかった発見とでも言えるような関係に気づけるかもしれません。大袈裟に言えば、親子の間柄に、人と人という関係を加えられないかと思ったわけです。

 写真に限らず絵画でも俳句でも、その道で表現するためには見つめることは欠かすことのできない大事な準備です。見えるものを相手にしながら、できることなら見えない何かに近づいてみたいのだと思います。

 我が子を愛おしむとは、どうすることなんでしょうか。よその子どもたちにまで目を配り思い遣るときそこに慈しみのカケラでもあるなら、見えないけれど大事な関係がすでに生まれているのかもしれません。子どもたちの心や未来は、見えないものの究極の大事です。そんな思いを抱いて撮ることができたら。おかあさんだからこそ、撮れるような気がします。










2015年10月8日

福島の気持ち





 こんな日本にならなければ福島にはたぶん出かけることもなく人生を終えたにちがいない。ということは、福島の人に出会うこともなく、福島の人の思いを想像することもない。だれひとり望むはずのない原発事故が起こり、ネットの情報で知るかぎりではおぞましいばかりの危機から奇跡的に逃れることができたという。それでいま、福島にも少しずつ日常が戻っている。

 ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプがご縁で出会ったけんちゃんとやすこさんご夫妻に二本松の提灯祭に連れて行ってもらった。高さ十数メートルの山車七基がロータリーに並んでいた。大勢の見物客であふれ身動きさえできない。写真を始めたころ何度も能登の祭に出かけた思い出が蘇ってきた。あの頃の祭は、祭をする地元の人たちのための、神と遊ぶ祭だった。今では熱気を感じても観光イベント化した雰囲気がどうにも気にかかる。福島は、同じイベントなのになぜか大きなちがいを感じた。みんな心底楽しんでいる、それが表情から十分に感じられた。

 災難を乗り越えた人の、あるいは難題を抱えながらも前を向いている人の瞳はきらきらと輝いている。そばにいると心の中で脈打っているいきいきとした力が伝わってくる。現状は決して楽観できるものではなく、むしろ不安に苛まれる日が多いかもしれない。人生は哀しみでできているとさえ時に感じるけれど、生や暮らしの中には叫びや踊りがあり、歓喜もある。神々しいほどの笑顔だってある。「負けてなんかいられねえ」。そんな声にならない声を抱きかかえている日常がここにある。

 福島の人たちの気持ちを想像しながら何枚も撮った。関心の的は祭ではなく、祭を生きている人たちだということを、撮りながら確かに感じていた。「生きているってすばらしい」。ここでなければどこぞの安っぽいフレーズなのに、それが実感として迫り、目の前で踊っていた。
 

























2015年9月4日

多恵ちゃん





 「わぁ、京都、行きた〜い」と、多恵ちゃんがいの一番に返事を返してくれました。一月末、京都シネマという小さな映画館で開かれた上映会でのぼくの出品作を観たいと、声をあげてくれたわけです。作品には『家族の時間』というタイトルをつけました。去年の夏、夫を喪った娘は母ひとり子ひとりになってしまい哀しみに暮れる毎日を送っていましたが、その様子を傍に寄り添う父や祖父としてというより、一写真家のつもりで撮り続けたものでした。いつか思春期を迎え悩み多い日々を過ごすかもしれない孫娘が、それに立ち向かって行くための支えとなるような写真として、今ある幼い素の姿を記録しておきたいという思いがありました。そしてそれらを上映する機会に恵まれ、多恵ちゃんに歌を添えてほしいと願い出ました。

 上映と言っても、映画ではなく動かない白黒の重い雰囲気の写真です。写真を始めて三十年も経つというのに、今頃になって自分にとっての本当の写真を撮りたいと思うようになりました。試作を観た多恵ちゃんは、治療の後遺症から満足に動かせなくなった指でギターを弾いたりしながら、どんな音楽を添えようかといろいろ考えてくれましたが、内容が内容だけに明確なイメージがわかなかったようです。最後には、わたしを選んでくれたんだから今のわたしのまんまでその場にいようと、決心されたようです。それは、こんな形になって表されました。

 『家族の時間』は、病院のICUの風景からはじまり、婿が眠る棺を囲んだ娘たちなど、生々しいシーンがつづきます。多恵ちゃんは、おもむろに鈴を取り出し、ひとふり、ふたふりと奏でました。定員が六十人の館内は立ち見が出るほどでしたが、だれもが息をつめてひっそりと静まり返っていました。今思い出すと、まるで神に仕える巫女のような多恵ちゃんでした。鈴の音だけが、波打つように人から人へ、壁を這うように広がりこだましました。この作品にはこれしかないと思えるスタートでした。
 しばらく沈黙がつづいたあと、多恵ちゃんは歌い出しました。それは歌というより、歌い手の存在からわきあがる音の静かな波のようでした。数分おきにフェードインとフェードアウトを繰り返しながら変化していく写真に合わせ、スクリーンの登場人物に、会場の誰もに、語りかけてくれたのです。

 タンタタタン、タタタ、タ〜ン、タンタタタン、タタタタ・・・
 おかあさん・・・おかあさん・・・、タンタタタン、タタタタン、

 沈黙ほど饒舌なものはないと、静かな山を歩きながらときどき感じることがありますが、そのときの多恵ちゃんの、言葉少なな歌、というより、声、というより、心そのものという音楽は、おそらく聞いているすべての人の中に饒舌な波となって届けられたのではと思います。

 タンタタタン、タタタ、タ〜ン、
 おかあさん・・・おかあさん、ほら、こっちだよ、おかあさん・・・

 上映がはじまったとたん、じつはプライベートな娘たちの姿を公開してしまったことを悔やんでいましたが、多恵ちゃんのささやくように、語りかけるように歌う、おかあさんの響きが、この場を知る由もない娘にも届いているような気がしました。癒しという言葉は好みではありませんが、多恵ちゃんはその存在をかけて世界を癒していたのではと、いまになって感じています。決して大げさでなく。

 なぜ、重い病にある多恵ちゃんに、京都まで来てほしいと願い出てしまったのか自分でもよくわかりませんが、多恵ちゃんしかいないと思ったのはたしかでした。行きたい、と声をあげてくれたのを幸いに、それじゃおいでよ、と言葉はとても軽いものでしたが、気持ちは割と重く、自分で言うのもなんですが深いものでした。写真家を目指すぼくの写真と、新しい音楽に出合いはじめた多恵ちゃんの、この世での最初で最後のコラボレーションにしようとまで話し合いました。

 それはなにも多恵ちゃんがこの世からいなくなってしまうことを前提とした話ではなく、ふたりの命をかけてもいいような、この世でたった一度の表現の場にしよう、という意味をこめたつもりでした。こうして書くと、命をかけるなどという大げさな言葉を使う資格がぼくにはまだあるように思えませんが、多恵ちゃんを思い出すたび、表現とは命をかけて表してこそ表現になるのだと思わないではいられません。

 多恵ちゃんと出合ったのは、長野県の女神山で開かれたアート・オブ・リビング・セミナーという集いででした。そのセミナーのサポートスタッフだったぼくはチラシを作り仲間内にも告知していましたが、それを見た多恵ちゃんは、「きれい、こんな美しいチラシのセミナーなら」と、この時もいの一番に参加を申し込んでくれました。

 今でも思い出します。会場で待ち受けていたぼくは、ああこれが多恵ちゃんだとすぐにわかり、「マサヒロです」と自己紹介し、「多恵子です」と微笑みながら答えてくれました。それからわずかに二年ばかりのおつきあいでしたが、どうやら人と人はふれあう長さだけではないようです。あのセミナーの最後に、多恵ちゃんはすっくと立って歌ってくれました。歌詞もメロディーももう覚えていませんが、死ぬまで忘れることができなくなった多恵ちゃんの存在は、これからの表現の力強い糧になってくれると思います。     









      


2015年5月12日

じんのびーと日記 #003





 連休明けのじんのびーとに残っているのは、玄関前のタケノコを器にした生花。コウキやカリン、シュンタロウらが掘ってきたもので、タケノコ掘りというより、背くらべできそうなほどの大物でした。つまりは、タケノコ折り(笑)。根元に近い節を器にしたようです。誰もいなくなった大きな家にいると、残された物たちの存在が目に入る度しんみりしてしまいます。子どもたちの黄色い声、おとうさんやおかあさんの寛いだ笑顔、楽しかった食卓、ますやんと呼んでくれるひとりひとりの声まで鮮やかに蘇ります。キャンプが終わってもこんな気持ちになったことはなかったのに、不思議ですねえ、これが家というものでしょうか。もう何年も前からじんのびーとに住んでいるような錯覚を覚えます。










じんのびーと日記 #002

 

 田んぼでの米作りなど素人が手を出せるもんじゃないだろうとずっと思い込んでいましたが、三年前の春、大土の田んぼオーナーとしてほんの少しの体験をし、さらにそこで出会った輪島の鴻さんの田んぼを何度かお手伝いする経験が徐々に気持ちを変えてくれたようです。聞けば、米はバカ草とか言われるほどに強い植物だそうで、自然農スタイルがもっとも相応しいのでは、などと勝手気ままに想像するまでになりました。かと言って、まったくのド素人が単独で臨むには相手が悪い(笑)。そこへこの連休中に滞在したけんちゃん(福島市)や智子さん(郡山市)ら農家出身の方々の力添えがあり、ますますその気になったというわけです。
 実は、けんちゃんとこの地区の区長さんでもある妹石さんが意気投合してしまい、ますやんがやる気なら手伝おうじゃないかという流れになってしまいました。こちらも男として引き下がれないという、なんともはや場にそぐわない思いも半分ですが(苦笑)。
 子どもたちも手伝った田植えの翌朝の風景、いかがでしょうか?こうして写真で見ると、なんとなく様になってますよね(笑)。みなさんが福島へ帰られたあと、今度はその同じ田んぼで種もみを蒔いてみました。時期が遅いことは読んだり聞いたりして分かっていたんですが、用意した種もみをそのまま放置する気になれずの強行です。四千粒もあれば十分に足りるだろうと思っていたのに、想像と実際はあまりにかけ離れ、ほんの一畳足らずのスペースにすべて収まってしまう少なさ。その上に細かく土をかけ、鳥や小動物に荒らされないように竹のドームをこしらえました。周りの溝にたまる水で湿り気を維持する感じです。ここまでの作業に三時間あまり、できることなら少しは格好になってもらいたいもの。プロが見れば、呆れて物も言えない風景かもしれませんが、気持ちだけはちょっぴり真剣です。金沢の自宅から離れた能登の地へ、はたして何回通えるでしょうか。妻や老いた親と別れて住みつくという選択肢のあることも常に抱きしめながらの様子見です。今回植えた苗は、区長さんから分けていただきました。水の管理もやってくださるとのお申し出があり、ますます真剣度が高まります。