2019年9月12日

十年目のプレゼント



 何人かの親しい仲間が共同で贈り物をする話はよくあるだろうが、その贈り物が結婚祝いの記念の無料撮影券というのは滅多になさそうだ。ましてご指名を受けたカメラマンとなり、撮影料として三万円をすでにいただき、それが十年も前のこととで、いい歳をした頃合いになると、このまま撮らずに終わるのではと気になって仕方がなかった。モデルの友人に折にふれ催促し、ようやく実現。まるで夢がかなったかのような気分で、撮る方も撮られる方も、幸せな半日を過ごすことができた。

 十年ひと昔とはよく言ったもの、写真の環境を見ても隔世の感がある。今の気分からするとフィルムを詰めたローライでじっくり向き合っても良さそうなところだが、仕上がりはネットを介して作るアルバムとして設定し、お二人の希望にそったロケーションで、いろんな表情をパチリパチリとデジカメで何枚も撮った。撮影がどんな風になるのか想像もつかず気になるのはモデルとして当然のこと、抱えていたちょっぴりの不安を思いっきりよく裏切ることができたようで、最終的に手にするアルバムそのものはもちろん一番の楽しみ、さらに撮られる経験もプレゼントとなるようなひとときにしたかった、というわけだ。

 三十度を軽く超えた折からの残暑、二人とも汗びっしょり、それも十年の歩みがあるせいかどんなことも全てが味になるような気がした。別れ際に思いついて、十年を振り返った今の気持ちやお互いへのメッセージを書いてみたらと提案すると、忙しい僧侶の友人は一瞬戸惑いながらも、年内完成なら行けるかも、と承諾してくれた。想像するだけで、なんとも幸せな気分になる。この機会をプレゼントしてくれた福井の友人たちに感謝したいのは、むしろこのカメラマンの方かもしれない。この撮影が当時すぐに行われたなら、到底この展開にはならなかった。せいぜいが二、三枚の写真を台紙に貼るか額装するに過ぎなかっただろうか。これならもう三十万円ほどの価値、十年待った甲斐がある。

 それにしてもこの写真、お二人の今を表しているようで、実に興味深い。日が傾き出し、夫人のふるさとでもある越前の海がキラキラと輝いていた。ここがいいと車を止め、最後のシーンとして収めることができた。気功や整体にも精通している友人は、ちょこんと腰が引けて、それが丹田に力がこもっている姿勢にも見える。朴訥な人柄に惹かれたに違いない、なんとも幸せそうだ。










2019年5月2日

遺影写真を撮ります


今年は、いよいよと言うのか、待ちに待ったとでも言ってしまいたいくらいの、高齢者の部類に組み込まれる世代となり、単に年を食っただけの話でも、なぜかその資格を得たような気分で、念願かなって遺影写真家を名乗ることにした。温泉旅館の広告撮影や昨年からパートタイマーとして始めた就労継続支援事業のスタッフの立場があり、おまけに趣味程度の野良仕事に、何がしかのもの書くという夢までたずさえており、これでもかとういうほどごった煮状態の日常にあって果たして遺影写真の専門家になれるものか、我がごとながらふらふらと宙ぶらりんな残生を、今日までと同様に歩くことになりそうだ。
 
 掲載のこの一枚の写真を撮らせていただいたあの瞬間に、遺影写真という分野が明確に目の前に現れた。当時の日記にその思いが滲んでいる。

 「いつの日か遺影写真を撮りたいと思うようになって随分と経ってしまったのは、命の何たるかを知らないで到底撮れるものではないと思っていたから。その心の重い扉を開けてくださったのが、この渡部さんだった。建具屋の三代目として生涯家業を営まれた。ご子息の結婚式を撮影した翌朝、撮らせてもらいたいと胸の鼓動を抑えて願い出た。ああ、いいですよ、意外にも軽く答えられるや、ゆっくりとパジャマの上着を脱がれた。ベッドの上で過ごす時間が一日の大半を占めているようで、弱々しい老人の姿を前に、撮りたいと思ったはずの気持ちなど跡形もなく消えてしまった。
 撮影前のほんの数秒間、目と目を合わせた。いきなりファインダーを覗くなど無礼なことだと無意識にでも感じたのかもしれない。老いとはどうやら枯れて行くもののようだ、なのに、あの瞳の奥で鋭く、しかもほのぼのと光るものはいったい何だったのか。フィンダーの中の渡部さんがこの小心者を圧倒し、睨まれた蛙のように、心にもレリーズボタンを押す手にも緊張が走った。職人の魂などと簡単な一言をしたり顔で使うわけにも行かず、長い年月を歩いて来られた果てのその最晩年に出会っているという、ただただ静かな感動に包まれた。」

 あの日から六年ほども経った。だから、ようやく、いよいよという気持ちになっているのかも知れない。相変わらず、命の何たるかなど知る由もなく、職人にも、写真家にも、ついには結局一人前の人間にはなれず、このまま終わることはほぼまちがいなく、切羽詰まって動き出すしかないというのが本音というところだろうか。

 まあ、いいさ。人間に完成や完熟があるとも思えない。

 同じ頃、おやじについても書いていた。

 
「定年退職後に関連会社の社長職に納まり、仕事一筋と言えば聞こえは良いが、本当に仕事上のつきあいしかなかったようで、今では日がな一日テレビの前に座りつづけ、まるで切り株のような人になっている。それで何の苦痛もな不平不満もないらしく、これが意識してのことならまさに覚醒した人に思える。
 昔話を聞いておきたいからと、おやじと最後に飲みに出かけたのはもう何年も前、今ほどの物忘れもなく、いろんな話をしてくれた。軍隊に志願したのは少しでも人の上に立つため、と言いながら伍長止まりで、時折差別的な呼称で隣国を呼んでいたのを思い出す、極々普通のどこにでもいそうなありふれた日本人だった。
 県の職員時代に汚職の前科があった。その顛末を聞いておくのは息子の務めだとも思った。『なあに、あれは業者に呼ばれビールを一杯飲んだだけ。あん時の上役が行けと言うから行ったまで、まったく馬鹿な話や、新聞はあらぬことを書き立てたしなあ。』どこか懐かしそうに話したおやじの言葉を息子は信じるつもりだ。世の中の動きなどに何の疑問も感じない、愚直で馬鹿正直な人だったのか、せめてこの世に一人ぐらいそれを誇りに思う人がいていいはずだ。
 たまにレンズを向けると、小さくはにかんでみせる。撮る撮られることを通した、これも父子の会話だろうか。」

 その父も、昨夏天へと召されて逝かれた。死者ともなれば、生前には思いもつかなかった敬う気持ちに包まれる。遺影写真にするつもりで撮った縁側での写真が親戚連中に妙に評判が良く、毎日恩着せがましく眺めては、話しかけている。

 写真の力の一つはその記録性にあるが、静止した画像の中から浮かび上がる実に様々な思いがますます見つめる者の想像力を膨らませ、あの世でもこの世でもない、その間(あわい)を埋めるような不可思議な力こそ、唯一最大のものではないだろうか。ことに、遺影写真というより、食卓で何気に撮ったこの一枚のような、生きていることに、ましてや撮られていることなどにまったく頓着しない瞬間に、ああ、あの父がいるような気がしてしようがない。

 どうせなら、撮るために出かける遺影写真の撮影場所でも、お互いに生きていることからほんの少しでも離れられるような時間を過ごしてみたいもの。

 何のために生まれてきたんだろう、死までの刹那、宇宙の営みからすればまさに閃光でしかない塵のような日々の中に、溢れるほどの思い出が詰まっているなんて、夢だろうか、ほんとうに夢、なのかも知れない。


遺影写真館 言の葉とともに
https://kazesan63.wixsite.com/iei-kotonoha










2019年1月1日

巫女の舞


巫女になった孫娘の鈴のお祓いを
何度も浴びて、今日この日から
何ひとつ怖れることなく
安心して暮らそうと決めた元日。










2018年12月29日

清浄な人

 タイはチェンマイ、ラオスはルアンパバーンでひとときを過ごし、インドシナ半島に俄然興味が湧いてきた。それも都会ではなく、USATOの生地を生産する村々のような素朴な土地を何年もかけて歩いてみたい、などと金ももはや残された時間も乏しいくせに、せめて夢として抱えることにした。
 その南国から帰って翌日、早速もう一つの仕事に従事、就労継続支援事業のスタッフとしてホテルのバストイレ清掃に取り組んだ。この仕事は単純作業の一つだろうか、慣れてくると様々な思いがい浮かんで実に豊かな時間になる。洗面台を磨き、コップを洗い、バスタブをこすり、トイレの隅々に目を配るうち、滞在した羽田やラオスのホテル、USATOのゲストハウスの同じスペースの清掃具合を思い出す。
 部屋の清掃は、それに打ち込んでみると、見た目に綺麗というだけでは足りないのかもしれない。一見しただけでは気づかない、たとえば鏡や床の隅、敷居に当たるステンレスやガラス扉にこびりついた水垢、トイレの蓋の裏、排水溝の網の目、点検する箇所は小さなスペースといえどあれこれとあり、そのどれもが完璧に美しくなる時、清掃したのではなく、浄化と言っていいような気がするほどに満ち足りる。
 それでまた思い出したのが、ルアンパバーン郡のある村、あれは公民館のような建物でそのトイレの簡素な作りと、水で満たされた小さな風呂桶のような囲い。排泄した汚物を囲いの中の水を桶で汲んで流すだけ、床もスリッパも半ば水浸し、どうにも綺麗とは言い難かったが、けれど慣れれば多分これ以上何も必要のない美しさがあったのかもしれない。水浸しと思ったのは足が濡れる不快感を避けるためだろうが、村の誰もがみな裸足で草履、上り框の下には厚い布製のマットがあり、何不自由もなく部屋に入って行けるわけで、南国の自然に合わせた自ずからの清らかなつながりあると言えなくもない。
 人の暮らしは、文明開化のなれの果てにたどり着いた贅沢な家や環境にあるのだろうか。清める、浄めるという観点が清浄ではない状態をそう為らしめるためにあるとすれば、手を下さなくても清らかな環境をさらにほんの少しの心配りで整えることができるなら、それをこそ人としての美しさと言いたい。
 清掃は汚れを取り除くだけの話で、清掃しなければ追いつかない過剰な文化からは遠く、清濁を併せ持ちその中で営む暮らしと、それを暮らす村人の純朴な微笑みにふれるとき、現代はとてつもなく大事なものを失ってしまったのではないか、などとつい思ってしまう。
 あの村この村の清浄な人々の笑顔がまた浮かんでくる。人としての大事なものを意識することなく抱えているようなあの笑顔が。










2018年11月4日

父と母の手で




 明日九十二歳を迎えるはずだった親父の遺影の前で過ごす短いひとときが、この頃もっとも大事にしている日課になった。生きている間はほとんど関心のなかった父という存在が日毎に重みを増してゆくようで、死者との語らいというほどではないけれど、きっとこの先も戸惑い多き愚息を導いてくれるような気がして、根拠もなく大いなる安心感に包まれている。

 結局一月半の入院生活の果てに、肺炎を患い、あっけなく天へと召されて逝かれた。膀胱癌のために施した放射線治療など受けずに家でのんびり暮らしていた方が、親父にとってどんなにか快適だったろうにと悔やまれる。あれこれ整えた介護生活の準備が全て不要になり、いくら毎日病室を訪ね見舞ったとしても、家族として何もできなかったことを省み、それが人間には普通にあることなんだろうと思ってしまう哀しみを抱き続けてもいる。

 ことさら意識していたわけでもなかったが、最後の時を過ごす父と母が二人並んだ姿を何度か撮った。死というものがほんのすぐそこにあり、なのに死別したあとのことなどちっとも想像できないまま、ファインダーを覗き込み、この二人の間に生まれ育てられたことをたまゆら思い出し、今こうして身の回りのすべてがゆっくりと終わってゆくのかと、心でため息をつきつき、それでいて軽口ばかり叩く自分がなんとも情けなかった。

 亡くなる十日ほど前、二人の手を重ねて撮らせてもらった。どちらもシワとシミだらけの手が歩んだささやかな歴史を表しているとしたら、きっとお袋はこの写真をもっとも気に入ってくれるにちがいない。年齢の割りは驚くほど骨が丈夫だったんですねと、火葬場の係が漏らした言葉で、よろよろしながらも最後までしゃんとしていた姿が鮮やかに蘇った。それをわずか十九で嫁いだお袋が、やがては文句ばかりこぼしては細やかに支えてきたということになる。

 ねんねがねんねを抱いとるわいと茶化されたという母の背中のその息子も、早耳順。どこにでもある親子でも、ここだけにしかないことが、今はよく感じられる。同居する家族の誰か一人が亡くなってはじめて感じているこの味わいを言葉にしてみたい気もするが、どうにも格好ばかりつけることになりそうで、今はやめておく。けれど、いつかちゃんと言葉にして残しておきたい。

 先日、夫を亡くして八年になる娘がメールで送ってきた言葉をまた思い出す。「おとうさん、人生訓を垂れるのもうやめて。私は私の経験を頼りに生きていく。」何を偉そうにとも思ったが、自分の頭と言葉で考え行動する人になってほしいものだと心がけて見守った子供たちが、しかとそうなっているわけで、むしろまことに喜ぶべきことのようだ。

 言葉で表すことを大事に、けれど、極寒の中でゆっくりと醸造する酒のように何度でも身の内で練り直し、天と地のこのあわいを想像し、今はそこで静かにたゆたっていたい。とても身近になった親父とともに、人生訓などでない、もっとも個人的な作業として。ありがたいことに、好きじゃなかったお袋が、なんだかどうにも愛おしくなってきた。











 

2018年7月31日

だんまりと




 父と息子という間柄をこんなにも意識したことは、互いにそれなりに長い人生を生きながらこれまで一度もなかったような気がする。「よく似てますねえ、そっくりやわ」と中堅どころの看護師が呆れて感心するほど、どうやら側から見ると生き写しというやつのようだ。おやじと一緒にされることを拒む気持ちはないけれど、でも中身は大きくちがうのだと、ずっと思い続けてきたかもしれない。あれこれと考える人を装う息子と、何一つにも関心を示さず、ただ息をして、食べて寝転んでいるようなおやじと。

 軍隊へは自ら志願して入ったと、見合いをする前の青年の話を母がしてくれたことがある。なんでもその方が少しでも出世するだろうと思ってのことだったらしく、伍長という地位に付いた。下には二等兵と一等兵がいたことになるのか、大正15年生まれを誇りにするような妙なところがある、当時の若造がどんな顔して振舞っていたのやら想像もつかない。いよいよ戦地へ派兵されるという直前に敗戦、まだ19歳の頃だ。いつだったかテレビの映像を見ながら“チョンコロ”という言葉をおやじが発した。差別だと知らない無邪気なだけの子供でも、なんとなく嫌な気分になったのを覚えている。戦争そのものをどう考えていたんだろう。期待する答えが返ってくるとは思えないけれど、忘れたわい、なんも覚えとらん、としか言わない今では何もかもが遅すぎる。

 おやじに膀胱癌の診断がくだって以来、人は衰えて当然と眺めているだけだった息子の気持ちにちょっぴり変化が生じ、近所へと花見に連れ出した。おお、きれいやなあと、一言だけ。あとはだんまり、桜花を見ているのか、それとも空でも見上げているのか、親子でもよく分からないことばかりなのは、気持ちも会話もずっと交わしてこなかったつけが回ってきたということか。せめてものことにと、ようやく使い慣れてきた二眼レフのファインダー越しに、こちらも黙っておやじを見つめた。

 本当は生まれ育った小松の街やよく遊んだという梯川のほとりを歩いてもよかったのに、もう少しあったかくなってからと日延べしているうちに、いつしかその気が薄れ、血尿が止まらず貧血でよろよろし出したのを潮時に入院生活と相成った。何事も自然な成り行きに任せようぐらいな息子は、老化も死も、だれにだって訪れる当たり前な姿だと分かり切っているはずが、病んでいる本人に確たる意思を感じず——と思い込んでいるだけなのかもしれないがと、これを書きながら一瞬不安にもなり——いろいろに迷い、結局医者が奨める放射線治療を癌が膀胱の半分にもなった今さら選択した。

 その責任を感じているのか、そうせずにはいられない、まるで強迫観念に背中を押されるようにして毎日病室を訪ね、互いに耳が遠いこともあって相変わらず大した会話もなく、だんまりと、ほかにすることもないのでしばらく肩や背中をほぐしてやるばかり。気持ちがいいともなんとも言わず、終わると、あんやとと軽く頭を下げる。それだけのことが二週間あまり続いている。

 ベッドの横のポータブルトイレに物憂げに座りこむおやじが窓からの仄かな光に浮かび上がる。さながら考える人のようでもあり、代わりにおもむろにベッドに移り、一枚そっと収める。こんな時の二眼レフは、シャッター音さえほとんど感じずに済み、ミラーアップもないから撮る瞬間もおやじの様子を見ていられる、実にいいカメラだ。痛ましいおやじの中に、彫像のごとき厳然とした力が隠れているような、気がした。

 戦争にしても役所勤めで強いられたという収賄の前科一犯にしても、おやじが生きた日々に果たして思考はあったのか、大きなもの、たとえば権力を疑うということはなかったのか、結局長いものに巻かれただけなのでは、などと無責任に思いめぐらすことがある。そしていつも、このおやじがいて、この息子の人生もあったという一点にたどり着く。お互いのちっぽけな人間としての存在と日々、今もその一コマとして向き合っている。これにまだ迷い大き我が息子がいて、わずか三代ばかりの系図とも言えないちっぽけな繋がりのあれやこれやが何事もなかったかのように、果てしなく、あるいはいつしか途絶えてしまう、だけなんだろうか。

 とにかく不思議にも、片時も休まずおやじのことを思っている。半時ほど過ごす病室でより、離れてこそより深く味わうように感じている。これがもしも、どんな人生でもそれを終えてゆく最後の過程にある何か大事なものの一つだとしたら。父と息子の、どちらが先に逝くのか、決してわかったものでもないけれど。










2018年1月17日

葛藤という関係


 Twtterで見かけて思い出し、書棚の奥から引っ張り出した石川達三『生きてゐる兵隊』。四十年も前の学生時代、アパートの近くにあって何度か覗いた小さな古本屋、確かあてがわれただけの読みもしない写真の教本を売り払い、興味本位で代わりに買った。敗戦間もない昭和二十年十二月発行、定價が四圓五十錢、河出書房の自由新書とある。小口や扉には中村姓のスタンプがやや擦れて見え、触れるのを躊躇してしまうほどに黄ばんで所々に染みが浮かび、小冊子ほどの体裁の割にはさもこの家にも古書があるのだと言いたげな顔をしていた。読み始めてどうやらこれが初めての出会いだと分かった。生きている間に気がついてよかったなあと、まさかのタブレットの世の中で、慈しむような気持ちを抱いて、年の瀬の数日、静かに読み進めた。

 著者が中央公論社の特派員として中国大陸に赴いたのは昭和十三(1938)年一月、南京事件に関与したといわれる第十六師団三十三連隊に取材し著したのがこの小説で、同年三月、中央公論に発表されるや、無防備な市民や女性を殺害する描写、兵隊自身の戦争に対する悲観などを含む四分の一が伏字削除されたにもかかわらず、「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」などとして、掲載誌は即日発売禁止の処分。執筆者、編集者、発行者の三者は新聞紙法第四十一条(安寧秩序紊乱)の容疑で起訴され、著者は禁固四か月、執行猶予三年の判決を受けた。(ウィキペディアより) 開いてすぐの「誌」は、「この作品が原文のまゝで刊行される日があろうとは」ではじまり、発刊に到るまでの経緯と筆禍を蒙った著者の感慨が、自らにもささやくように綴られている。

 「この作品によって刑罰を受けるなどとは豫想もし得なかつた。若氣の至りであつたかも知れない。たゞ私としては、あるがまゝの戦争の姿を知らせることによつて、勝利に傲つた銃後の人々に大きな反省を求めようといふつもりであったが、このやうな私の意圖は葬られた。そして言論の自由を失つた銃後は官民ともに亂れに紊れて遂に國家の悲運を眼のあたりに見ることになつた。今さらながら口惜しい氣もするのである。」

 だが読後に感じたのは、これがあるがままの戦争の姿なんだろうか、というある種の疑問だった。確かに罪もない庶民が虫けらのように残虐に、しかもあっさりと殺され、けれどどこか坦々として描かれているのが不思議な気がして、大きな戸惑いとなったその思いを抱えて読むことになった。末尾の「附記」には、「本稿は實戰の忠實な記録ではなく、作者のかなり自由な創作を試みたものであり‥‥」とある。どこまでが事実で、どこからが創作なのか、小説とはそういうものだと言われれば頷くしかない。この一言で、あるがままの姿を迫真という表層に収めることも可能になり、曖昧だ、とつい感じてしまうことにもなるけれど。そう言えば、抑制を利かせることは小説を書く上の重要なポイントであることを一年ばかり学んだ丸山謙二塾で知ったばかり。

 南京が陥落したのは、著者が南京入りするわずか二週間前の昭和十二(1937)年十二月十二日。ウィキペディアの『生きてゐる兵隊』の項に興味深い記述がある。著者は「入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき、街上は死体累々大変なものだった」と自らが見聞した虐殺現場の様子を詳細に語っている一方で、「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」とも。今さら仔細の分かるはずもなく、そして物語の中で大虐殺は一文も触れられていない。

 金沢で自主上映された『南京!南京!』という映画を観たのもこの十二月。小説とは大きくちがい、ひとり監督個人に留まらず役者はもちろん様々な役割を担う大勢の人が関わっている。公式サイトを見回して、映画作品をなすための複雑さにたじろぎ、観た感想をここに一言で書き留めることを躊躇ってしまう。

 映画はもちろん演劇や小説など、題材が戦争ともなると今は実体験に基づくものは限られている。『南京!南京!』では、監督と役者が日本兵の葛藤を表すための演技や台詞をせめぎ合うように検討したことが記されている。たとえ架空の人物のものだとしても他者の経験の、それも微妙に揺れる内面を表現する難易度の高さは容易に想像できる。だからこそ、葛藤している姿は描けても、全体何にどんな風に苦悩しているのかという核心となる具象を感じられないもどかしがついて回った。それは『生きてゐる兵隊』でも同様だった。

 七十年の間に平和ボケという形容まで出るほどに戦争を知らない世代ばかりのこれからの時代は、個々の心の、その人にしか分からない、否、本人でさえ掴みきれない葛藤こそが意味を持ち、内なる苦悩から外を見つめることで、不用意に他者を傷つけない社会に僅かでも近づけるのではないか、などと年のはじめに思い立つ。











2017年10月6日

名月の森



 仲秋の名月に、人はどうしてこうも惹かれるのか。毎年その宵だけは特別な過ごし方をしたくなる。北陸の秋、滅多に見られない十五夜が顔を出すならと、二年ぶりのチブリ尾根へ。名月の森を歩くことにした。

 とは言いつつも、深夜の誰もいない山奥をとぼとぼ歩く己れの姿を想像するだけで、実は今でも単純に怖さが蘇る。ところが実際に歩いて、ヘッドランプの灯を落とし、辺りを見渡し、森閑たる闇に包まれてみると、実に不思議なことに、これを安らぎというのではないか、とも思える感覚に浸っていた。むしろカサコソと落ち葉を踏みながら歩いているその時間に、恐怖感にも似たいささか落ち着かない気分に包まれた。だからだろうか、キョロキョロして気を紛らわせ、まるで見つけられるのを待っていたかのような場に出くわすと、ほっと一息、胸を撫で下ろすことになる。三脚を立て、静止する長時間露光の間、日常を離れた、どこか遠い、ちがう世界に立っていることを、どうやら喜びとして感じていた。

 歩くことに始まる動作、行動の類は、動物が生きるためには不可欠な要素だろうが、動くことが生きること、というわけでは決してない。寂として佇むことができる人間には、野生が獲物を見据え構える姿勢とは随分ちがう、高度な精神性が宿っている。生きることとそれは、かなり重要な繋がりを持ち、生きることの支えにもなり、加えて死にさえも何らかの力を発揮するのではと思える。

 昨晩、病床に伏せっていた旧友がこの世に別れを告げた。久しぶりにこのブログを書く気になったのも、そのせいだろう。

 末期の食道癌と診断され、抗癌剤治療のために入院している間、三度見舞った。久しぶりに顔を合わせるや、「お前の方こそそんなに痩せて大丈夫か」と却って気にかけてくれ、「何だか治るような気がするよ」とまで言って爽やかに笑っていた。二度目の折は、抗癌剤が体を傷つけているのだとかで、打って変わって元気がなく、試食用に持参した酵素玄米を手渡し早々に引き上げた。三度目は、ほんの数日前のこと。ぐったりとして、息苦しそうで、何度も痰を取り、なのに自分を元気づけようとでもするように、あいつらしく冗談もこぼして、これからはもっと頻繁に見舞ってやろうと思い直した矢先だった。

 無声音でしかも含み声だから、この頃遠くなった耳には聞き取れなくて、ろくに会話にならず、それではと足を揉んでやった。気持ちいいのかどうでもいいのか、表情を変えることもなく、それでも、こっちも揉んでくれとばかり足の位置を変えたり、半ば眠るようにして。「お前どこでそんな技、覚えたんだよ」。「足揉みのことか。昔からだよ、家族の足揉み」。今思えば静かで、いい時間だった。

 友が差し出す手を、そうするしかなくて自然に握った。「よくわからんけど、男の手でもいいから握っていたくて」。そうか、悪かったかな、と答えて、ひととき黙ったままで固く結び合った。力を入れたり抜いたり、震えたり、無意識にそうしていたような、それとも、生者には分からない、死を前にして感じているものがあり、静寂に包まれた個室で友は手からそれを伝えようとしていたのか。でもそれは、友のように、何だかよく分からんものなのかもしれない。

 不安、不気味、恐怖などというものは、なるべくなら遠ざけていたい感覚だろうが、それらを超えてでも覗いてみたい世界も確かにある。日常という現場に埋もれるのではなく、たとえ日常であっても、己れの内なる深みを旅するようなひととき、あるいは揺れる心の動きや言葉をつぶさに感じ取る意識。それらがどんなに醜いものでも、吐きそうなほど忌み嫌うものでも、否、だからこそ深い水底へと誘うとば口を持っていそうな、そんな世界が、日常に隣るものとして常に横たわっている。

 友は最後には癌患者だったが、それが自分の全てではないとも言った。あいつは多分、大勢の友が集って笑った店で、もちろん病院ででも、静かに一人旅をしていたにちがいない。これからもきっとしばらく続けるんだろう。

 懐かしい。あいつとは何度も海外を旅した。当時頻繁にあったタウン誌の取材でのことで、何をしても自由、動いたまま、経験したままを撮り、記事にして、まったくもう、スリルがあって楽しくてしようがなかった。という同じ時空を生きた仲だから聞きたかったことがある。今どんな気分なんだよ、って。

 合掌。

 
 










2016年12月2日

老後の蓄え



 人は老いるにつれ蓄えが必要になるもののようで、そのとば口に立つ今、何を蓄えようかと思案したあげく、言葉にした。言葉を蓄えるという意味は自分でもまだよく掴めていないけれど、余生を生きるにはとても重要な気がする。バブルの時期に面白くなった仕事が重なり分不相応に得た金で次々と機材を購入した。それがはじけて後は、使う機会のないがらくたがごろごろ残り、そのほとんどを近所のカメラマンにくれてやった。金も仕事も機材もおまけに甲斐性もない凡夫は、だから言葉を選んだのかもしれない。

 蓄えは先行きの不安を解消するためにあるんだろうが、金がすべてを解決するわけでないことぐらい誰もが知っている。ましてやあの世に持参できるわけでもない。突き詰めれば、生きることと喰うことを同等に見るか、それとも生きる意味とか価値とかをお前ならどこに求めるのかと考える、という生き方のちがいなのではないか。吹けば飛ぶよな人生に果たしてどれほどの価値があるか。それを探りながら老ぼれて行くためには、やはり言葉こそが支えになる。

 言葉を蓄えるために、「小説の書き方」を学ぶ、孤高の作家の、丸山健二塾を選んだ。否、選んでもらえたのはこの凡夫で、ただでさえ先行き不透明な暮らしを顧みず、必要な入塾費になけなしの金を注ぎ込んだ。念のため家人に相談すると、どうせやるんでしょ、と一言返ってきただけだった。なんとも情けない。いつまで青臭いままで夢を見ているのか、言葉なら金を使わなくても操れるではないか、夫婦でありながら互いを尊敬し尊重する人であったか、など次々と複雑な思いが湧き上がり、今も燻り続けている。

 迷いはじめた最後はいつもこうだ。このままやらずに生きてそれで後悔はないのか。束の間の人生を悔いなく生きるためにカメラマンになり、あの時もこの方に、同じような言葉で告げたのだった。好き勝手に生きて死ねばいいと、思われて仕方ない人生に、ほとんど愚痴もこぼさず付き合ってくれた。償いは、どうせ人生など片時の幻でしかないなら閃光のように輝いてみる、ということかと、これもまたおのれの都合で考えている。

 撮るつもりでいる者がなぜここへ来て書くことに精進するのか。少なくともこれから一年は払い込んだ大金を足枷として、しかも不安定な暮らしに一切動ずることなく真剣で臨むつもりだ。書くことは撮ることと同じように、もしかするとそれ以上に見つめることがまず必要になるだろう。対象は外にばかりあるでのはなく、内にもさらには見えない領域にも広がって行くのだろう。その時、たぶん老いさらばえて行くことは何よりの宝になるはずだ。

 不安を減らすために人は金を蓄える。ならば、書く人は不安を材料に書きながらしぶとく生き延びる。だがただ書くのでは所詮は独りよがりで陳腐なものになるのは目に見えている。どうせなら尊敬すべき先達の道に一度は交わり、教えを請い、書くとはどうすることなのかを覗いてみたい。

 書きもしない今から血肉が震え、これこそが生命力なのではと、想像するだけで、この道は歩き甲斐がある。大金をゆうちょ銀行口座間の手数料無料を利用して送金し終え、半ば呆然としてATMを離れた。青味がかった厚い灰色の雲を背景に架かる虹が鮮やかに目に飛び込んできた。前を見て、胸を張って、郵便局の裏の家へと帰った。











2016年5月11日

日常に沁みて






 感動などでは決してない。共感するにはレベルが高すぎる。なのに体内にまで深く沁み入るように、忘れられない一冊になりそうだ。鬼海弘雄写真集『TOKYO VIEW』、『東京模様』とも名付けられている。写真家と発行者が何度も交渉を重ね高精細印刷技術を駆使したという価値ある仕上がり。それが一枚一枚の写真の力をさらに引き出しているのはまちがいないけれど、写真集の中に、まるでその風景が実在しているかのような錯覚が生まれ、見ている者自身も町をふらふらと彷徨い歩いている印象へとつながる、まことに不思議な一冊だ。

 写真家を目指しながら所蔵している写真集は数えるほどしかない。しかもそうそう何度も開かないときている。ひっくり返るような衝撃を受けた『GENESIS』でさえ同じ扱いだ。『TOKYO VIEW』はなぜ何度も見たくなるんだろう。窓際で見ているときだった。差し込んできたカーテン越しの陽光で写真の陰影が変わった。さらに深みが増したと言っていいかもしれない。それは、歩き続け何十年と撮り続けた写真家の居た時空間に、いまここにあるちっぽけな日常が重なった瞬間でもあった。理由がわかった。慈しむべき日常がここにもあることを、写真集が教えていた。きっと明日もまた開くにちがいない。感動でも共感でもなく、愛おしい日常のために。

 『TOKYO VIEW』には人が登場しない。気配があるだけだ。誰もが撮るかもしれない布団や洗濯物がしばしば捉えられているけれど、多くはこの凡夫なら見過ごしてしまうほどの町の片隅を切り取っている。その中でひときわ印象に残ったものがある。キャプションには「投げられたボール 1975」。階段のある路地に惹かれた写真家がハッセルを構え覗き込むやボールが画面に飛び込んできたんだろうか、傾いた画面がさらに動きを増幅している。

 撮っていると、こういう瞬間との出会いがよくある。鳥や風などがいい具合に画面を構成するように飛び込んでくる。けれど、それを捉えたと感じた経験などほとんどない。ボールの写真はだからすごいと言いたいのではなく、風景を求めて彷徨う写真家を、もしかすると風景のほうで待っていたのではないか、という印象がこの『TOKYO VIEW』にはあると感じるからだ。





 写真の世界の深さに戸惑うばかりの日々が続いている。偉大な方々の作品にふれる度、その度合いが増して行く。もう撮れないかもしれないと、すでに覚悟まで用意した。ここでも救いは発行者の佐伯剛さんの言葉だった。

 「一般的には、シャッターチャンスを逃さないために常にカメラを持ち歩いているのがいい写真家だと思われているが、鬼海さんは、カメラを持ち歩かない写真家だ。鬼海さんは、写真を撮る時間よりも、物事を見つめている時間と、考えている時間の方が、圧倒的に長い。
 自分の中にないものは撮れない。だから、いい写真を撮ろうと思えば、自分を豊かにする努力以外の近道はない。はやりのワークショップや、メーカー主宰の写真教室では、そういう大事なことを教えてくれない。その真理は、写真にかぎらず、どんな物作りにおいても古今東西同じだと思う」。

 鬼海さんと同様に考えることなどできるはずもないけれど、撮れないでいる今、撮らない代わりに、撮るための経験を重ねているんだと自分では感じている。福島の子供たちと過ごす保養キャンプも、能登の家じんのびーとで作り出している田舎暮らしも、そしてこのなんということもない日常も。

 窓際で『TOKYO VIEW』を見ていた翌日は、老いぼれて行くばかりの両親の結婚記念日だった。結婚した翌年にこの息子が生まれたから、63周年になる。今ではすっかり愛機になったローライで記念の一枚を撮った。撮ることで、感謝の気持ちに代えたいと思った。自分勝手と感じるおふくろが実はあまり好きじゃない。おやじも毎日テレビの前に座っているだけ、毎度毎度の病院通いに同伴するのが鬱陶しくなることもある。

 日常を慈しむとはどういうことだろうか。この両親が出会い結婚しなければ、もちろんこの愚息もここに存在せず、こんな駄文を書いていることもない。慈しむべきものは、見えない糸のようなものかもしれないと、ふと思う。

 短いのが気に入って毎日のように読んでいる鷲田清一氏の「折々のことば」の今日はなんとも奇遇だ。

 「家屋はたしかに安全性を保障するもの、嬉(うれ)しいにつけ、悲しいにつけ、いつもかくれ場所(ヨハン・フィッシュアルト)

 家は、人がおびえることなく身をほどき、くつろげる場所。強い信頼で結ばれ、『われわれ』という親密な関係の中に浸れる場所だ。けれども『兄弟は他人のはじまり』と言われるように、それは、深刻な葛藤が生まれ、たがいに他者であるということが至近距離で思い知らされる場所でもある。O・F・ボルノウが『人間と空間』で引いている16世紀ドイツの詩人のことば」。

 慈しむとは、たぶんお気に入りの対象を愛でることを越えている。自分自身を含めたあらゆる存在に向けて、むしろ好ましいと感じられない対象をこそ、己の全体で包み込むような感覚なんだろうか。ほとんど好き嫌いで生きてきたここまでの長い日々を思うと、今撮れなくなっている状況がさもありなんと頷ける。

 写真は見える対象を撮ることしかできないけれど、撮ろうとしているもの、少なくとも感じているものは、たぶん見えないんだろうと薄々感じてきた。『TOKYO VIEW』に出会いわずかこの数日の間に、静かに内で変わりはじめているものが確かにある。どこにでもある日常がここにも当然あり、どこの家族にもありそうな諸々でごったがえし、日々それらに翻弄されている。ただこれからはすこし違う見方、感じ方、考え方ができるかもしれない。雑多な暮らしの表層に惑わされ、このまま死んで行くのではあまりに情けなくないか。写真家を目指す前に、まずは人であれ。それも見えないものを見つめる人であれ。『TOKYO VIEW』がそう囁いている。

 衝撃的な出会いは熱が冷めればすぐにでも忘れ去るけれど、じわじわと日常に影響し続ける静かで沁み入る出会いは生きる力にもなる。そんな出会いが写真にもあるのだと、はじめて知った。