2020年12月2日

齋藤隆というドラマ


  
 絵画にかぎらずおよそ芸術の類を鑑賞してもほとんど何も感じていないのではと己れを訝しみ、そのあまりの鈍感さにいつも悲しい思いをしている凡夫にとって、おそらくこれが生涯にたった一度の感動と呼べるものかもしれず、理解する力を持ち得ない恥を晒す覚悟で、一言だけでも書き残すことにした。

 福島の友人に勧められて出かけた佐川美術館の地下の一角にそれは展示されていた。黒一色で描かれた人物、人間、否、魔、それとも幻? 一目見るなり、まさに目は釘づけとなり、下腹部のあたりを何者かに抉り取られるような、みょうに激しい動揺を感じ、その場に立っていることさえ辛くなる、ある種、近頃没頭している気功の快とは真逆の感覚、と言っても決して不快なのではなく、むしろ絵に見事に体全体を襲われてしまった、というのがもっとも近いかもしれない。

 題名は、齋藤隆『ドラマ(地の巻)』。一人の男の体からふわりと湧き出るような、これらはその分身なのか、様々な面を持つ人格というものなのか、それとも罪穢れ、あるいは業、そんな名前などどうでもいい、そのうち、描かれた男はまさにこの自分なのだと見せつけられている気がした。

 「人間が生きてゆく中でつかめるような物の本質、そいうものを表現したい」との画家の言葉を読んだ。

 人間として生きるとは、醜いことか、それともほんのわずかでも美しいと言える一瞬はあるのか、その一人として今日まで生きながら、確たるものは身の内のどこにも見当たらない。言えることはただ一つ、こうして動揺する生き物であることぐらいか。それは恥ずべきことか、それとも至極当然なことなのか、とにかく気づかない方がよかったとでも言いたくなるけれど、まあひと息つきなさい、とでも画家に言われているように、見てしばらく時間を置いたせいか、不思議にも今になって安堵のため息が漏れ出る。

 宇宙のスケールには比べようもないほどに、人の一生など芥子粒にもならない実に閃光のようなもの、そうして須臾の間でも光り輝くならまだしも、黒い男と同様に透けて、怪しく、軽々しく消えてゆくような人生を生きている者は、だからこそ、その実態を自らにだけは明らさまにし、描けないなら、もう一度撮り始める、画家のように孤高を生きる甲斐性はない、ましてや力不足は否めない、今はただ、この動揺を、むしろ誇りとすべきか、紛れもなく生きていたではないかと。

 それにしても、この静かなる迫力、無言の画家が見つめているまなざしの彼方に本質のようなものがあるとして、では本質とはなにか、人は幾重にも自らを重ねながらすぐにでも消えてしまう、では宇宙とはなにか、天体でさえも何十億年の長きにわたる生涯を終えるという。わからない、何一つ、わからないから旅をし表現もし、人は、黒く滲んで生きてもゆく。

 題はなぜ、ドラマなんだろう‥‥‥、










 

2020年11月10日

夢とか希望とか



  

 懐かしいブログを見返した。あのころは天真爛漫、などというよりあっけらかんと能天気なただの凡夫で、今はニヒリズムに浸って楽しんでいるようなただの凡夫。それでも読んで思い出したことがいくつかあって、その筆頭は、友、だろうか。この人生の友人は数少ない、そして少ないからこそ、一人一人の友との思い出が蘇ると、今でもその日々で感じていたことやシーンが、まるでスクリーン上に再現されているかのように鮮やかに心の目に浮かぶ。

 この一二日、夢とか希望、あるいは願い事という、おそらく人間しか持ち合わせていない、心なのか頭なのか、とにかく精神活動の薄っぺらさについて考えている。それが薄いのはこの凡夫の特質なのかもしれない、けれど私的にはとても重要な、命まで賭けたはずの願い事が叶わなかった現実を生きているのは間違いなく、夢や希望なども含め、実現しないことは案外多いだろうと推測するしかない。要するに一見前向きで積極的に思える夢などは、ただただ描いているだけなのではないか、と少なくとも自分自身についてはそう言える。

 たとえば、世界平和。軍需産業の経営者でもないかぎり世界平和を望まない者なんてほとんどいないだろう。それを夢として願うことはおおいに結構だし、だれもが是非とも叶えたい夢のひとつだろう。人類が誕生してのち今日までの長年月、では平和な時代はどれほどあったんだろう。だから不思議で、夢とか希望、願い事の類がどうにも不確かな、まさに見ているだけの薄っぺらな夢なのではないか、と。

 重度障害を背負った初めての国会議員の一人、木村英子さんは、政治家としての活動を振り返った「一年の軌跡」という動画の最後で、こんな夢を語っている。

 「自分から社会参加して、自分が社会の一員として、可能性を活かしながら、役割を持っていくということは生きがいにつながると思うんですよね。誰でも社会に必要とされたいって思っている‥‥(中略)‥これからの障がい者のひとには、地域に出てきて自分は迷惑な存在なんじゃなくて、社会の一員として構成員の一人として必要なんだっていう社会が実現できたら、本当にそれが私の夢ですね。」

  この夢は是非とも応援したい。彼女自身がその夢に向かってたゆまず行動している、その姿に凡夫でも度々感動している。夢は叶わないかもしれないのに、その夢を語る木村さんの微笑みを見て、その美しさに感動もしている。

 そして思う、夢は描くというより、描いて叶えるというより、生きるものなんじゃないか。

 はじめに掲げた懐かしいブログの頃、なんとなく夢見心地の毎日だったような気が、今になってしている。いいや、今日までずっとそうして暮らしてきたのかもしれない。何をやっても中途半端で、深まりのない、宙ぶらりんなこの人生を木村英子さんなら一笑に付されるだろうか、いいや、もしかすると、羨ましいわ、などと微笑んでくれるかもしれない。

 ではこの凡夫は、木村さんのように、夢を生きてみる、という風に切り替えてはどうだろうか。かなりハードルの高い技に思える、まずは夢見心地ではなく、生きるための夢を描き、そうして真剣にその夢とともに生きる、書くほどにハードルが高くなる。

 生きるということは、友や夢に出会うこと、かもしれないと、ここまで書いて感じている。それも数でなく、深みのある出会いがいいに決まっている。夢はまた実現するか否かの結果ではなく、それを生きながら、その先に、より大切な何かがあるのだろうと想像できる。

 この現実で生きていることじたい、夢のように儚いものなのかもしれなくて。

 











2020年10月26日

山を歩く




 千葉の友と二人で歩いた白山、これで何度目か、すっかり息が合って、とはどうやら思い込みだったようで、高山という自然はいつも優しく穏やかに受け入れてくれる訳ではなかった。二人ともそれなりに準備を重ね、ある程度の自信を持って臨んだものの、設定したルートはどうやら体力の限界を超えていた。こうして改めて写真を見つめると、背中の荷がかなり大きく重そうで、中身には避難小屋で使うシュラフにマット、衣類に食器、水や食料、友はなんと、山では野菜不足だからねと手作りのピクルスまであれこれと、優しい心遣いの重量ははかりしれない。

 初日のゴールはチブリ尾根避難小屋、予想外のスローペースで日が落ちてからの到着が見え出し、山岳ガイドをしている山形の友ならこんな時どうするだろうかと考えてみた。思い浮かんだのは、単独でゴールへ、空身で引き返し同行者のザックを肩代わりしてやるその姿だった。即実行。

 山歩きは、時に苦行で、それでも一歩一歩と歩を進めなければ決してたどり着けない修行のようでもある。好きで登っていることも、美しい周りの風景もすっかり忘れて、相棒はなんとも悲しくなっているかもしれず、そんな想像をめぐらすと、珍しく心配や不安が先行してしまい、己れの明らかな認識不足が悲しくて、悔やまれた。

 山を舐めている訳では決してない、ただし想像力が足りない。個々のコンディションを含め総合的な視点で適正な計画を立てるための、意識しての経験が圧倒的に足りない。山岳ガイドの力量たるやどれほどのものなのか、よくわかった。

 山を下りて、友は今どんな気持ちなんだろう。もう登ろうと言ってこないかもしれない。それともまたまたリベンジ?いずれにしても、山は征服するものだろうか、ほとんど白山しか登ったことはないものの、一度足りとも征服や踏破などと挑戦するような気持ちになったことがない。

 ゆっくりと、ゆっくりと、どこまでも時々の体調に合わせて、ゆっくりと歩く、空を見上げ、足元を見つめ、大気を胸いっぱいに吸い込む、たぶん山という手のひらの上で遊ばせてもらっている、決して無理のない計画の下でこそ、それらがかない、味わえること、しみじみと。

 それにしてもこの後ろ姿、かっこいい!













2020年10月25日

岩の愛、人の愛



  

 『心身の神癒』の第一話、ほぼ冒頭に「愛は鉱物における親和力である」という一節があり、月明かりの白山の頂で過ごしながら、山というより、まるで取り憑かれるように、圧倒されるばかりの岩ばかり見て、この言葉を思い浮かべた。白山は活動度が低いとは言え、1659年の噴火を最後にした活火山の一つに数えられている。御前峰山頂に浮かび上がる岩にふれると、冷たいはずのその肌に温もりが感じられるような、不思議な気分にさえなる。硬い鉱物がどのように形成されたものやら、想像すら届かないけれど、風雨に晒され、雪に埋もれながら長い年月を生きている、と言っていいのかもしれない、鉱物もまた愛の一つの現れであるなら。

 愛とは、などと言葉を並べたところでどうにもならない、鉱物にある親和力が人にもあるのだと思いがおよび、どうやら愛は生きるものなんだろうと、己れの出来不出来はともかく確信のようにして感じとることができるのは、やはり白山の岩と一晩過ごしたからだろうか。

 明け方までまだしばらく時間があり、疲れて、仰向けで横になるのにちょうどいい岩に出会い、ゴロンとするや、一気に眠りに落ちてしまった。数分にも満たない時間だったろうに、ブルっと震えて目が覚めゾクゾクと寒気が治らない。眠るんじゃない、と顔をひっぱたくシーンを映画か何かで観た、あれはこれのことだったか。凍傷の危険と隣り合わせの極寒の高山などとは比較のしようもないが、未明の白山にひとり佇んでいることを十分に感じ、ちょっぴり心細くなった。その岩の横で、熱を生み出そうと、全身を上下に左右に思いっきり振動させた。十分ほどか、ようやく落ち着き、もう一度岩を見つめ直す。

 噴火で吹っ飛んできたんだろうか、大小様々な岩があちこちにどでんと居座っている。白山は愛でできている、そう思うと、このまま眠り込んでもいいような気もして、でも、ご来光を待つのはやめて帰ろうかなと思い出した。岩に愛、人にも愛がある、下山の道へと歩き出した。「人にあって愛は愛情となって表れる。」










 



2020年10月23日

名月と白山




 仲秋の名月の宵、数年ぶりに白山の頂を歩いた。ところどころ風が冷たく吹き荒れ、これがこの人生で最後かもしれないと挫けそうになり、岩陰に入ると正反対に無風状態で、居眠りしそうなほど安穏として、ふるさとの霊峰は実に気まま、佇む人は吾一人ながらその気ままな大自然に抱かれる気分を分かち合う相手は、意外にも間近に感じられた街灯り、どこの町だか、食卓を囲む家族団欒、夜に働く人もいて、愛する人を喪い泣き崩れているシーンまで浮かんできた。霊峰白山は、こうしてすべての人の営みをいつも見守っているのだろう、そうとしか思えなかった。

 ピンホールカメラで撮ってみたい風景の中で、これでは露光時間は一時間でも足りないだろうと、セットした三脚の傍で気功でもしようと試みたものの、どうにも気分が乗らない。わざわざ練功して大自然の気と交流するおかしさというのか、すでにその深淵なる気に抱かれているではないか、なんとなれば溶け込んでしまえるほどに。

 気功とは、日常でこそどうやら必要なようだ。雑然とした暮らしの中でこの白山という聖域を想い、その気とふれあう、そのために今このひとときの味わいに浸りきる。なんとありがたいことか、頂で感じるのと同様に、常に人は見守られている。

 ずっとこのまま山に居たい、ここで生きていたい、もしもそうなったとしたら、どんな気分だろう。仙人になりたいとは思わないが、世渡りなどこれっぽっちも望んでいない。だからだろう、向上心というものをほとんど持ち合わせていない、なんとなく、生きてきた。そう思うと泣けてくる。白山、あなたのせいだ。

 それにしても日常からだととても遠くにある白山が、今これを書きながら不思議なくらいに近くに感じられるのは、やはり見守られているからだろう。気功は、その気になることを助けてくれる。

 人間はなぜほかの生き物とちがうんだろう。悩み、苦しみ、泣いて、悲しみ、夢とか希望が必要で、働き稼いで、利害損得を計算し、奪い合い、虐げ、あげく積極的平和というものまで掲げてしまう人間の一人であること、山にいると、ことに名月の頂きは、自分をも見つめる本当に特別な時間になる。














2020年10月22日

白山にて、星々とともに


 
 朝まだきの公園などで気功しながら過ごすようになり、晴れた日は星々を仰ぎ見る楽しみが生まれた。これはまさしく、実に楽しく、愉快でさえある。高齢者の仲間入りをする世代になるまで知っていたのは北斗七星やオリオン座ぐらいで、最近これにようやくシリウスが加わり、その名前を口にして手を合わせてみたり、向き合って練功したり、まるで懐かしい旧知の友に出会ったような小さな感動を味わっている。星々と語らう、と言ってももちろん一方的な会話でそれも実際に声を発するわけではないから、語らうというのは当たらないかもしれないけれど、二時間あまりも星空の下で過ごす気分はやはり語らうが近い。

 先日、千葉の友と二人で白山は南竜ケ馬場に泊まった折、ボランティアとして山小屋を閉じる作業に当たっていた男性がご親切にも星の撮り方を教えてくれ、改めてカメラを据え、早速そのように撮ってみた。ISO感度は800、絞りf3,5、露光時間は10秒だったか15秒。確かに天の川まで綺麗に写り、若干の補正を加えて上の写真ができあがった。

 下の写真は、その前に自己流で撮っていた一枚。ISO感度は400、絞りf8、露光時間は10分ほど。カメラや三脚以外の便利な小道具は持たないので、レリーズボタンを人差し指で押さえたまま動かずにじっと星空を眺めていた。人の目に止まっている天体は、実はこうして北極星の周りをぐるぐると廻って動いていることを、誰もが何かで見聞きして知っているわけで、それでもとても不思議な気分になるのはなぜだろう。星々のこと、ましてや宇宙のこと、それに地球のことにしても、まだまだ人間の力では到底及ばない世界が広大に、それこそ無限に広がっている。不思議で当たり前、なぜ毎夜変わらずに星は運行しているのか、それも何億光年も前に発せられた光を目の当たりにしているなんて、いくら想像してみても、不思議でたまらない。




 星々とともに過ごすひとときを持つようになり、大きく変わったことが一つある。心の中の見えない変化だから実証のしようがない分、この内側で感じ取れる領域の広がりは日中にまで残り、やがては再び訪れる夜にも、つまりは連日連夜の変化ということになり、もはや変化というより、これが人間という存在なのかもしれないと、星々が教えてくれたような気にもなる。

 何をやっても中途半端で、何を描いても決して最後まで到達しない、このまま実にいい加減な人間で終わりそうだと、自分でも分かるようになった。それでも気功ぐらいは死ぬまで続けよう。そうして星々を仰ぎ見ることは、星々に見守られていることでもあるのか、内側で広がるものの一つは、どうやら安心、というものかもしれない。それもかなりスケール感のある安心で、雑然と繰り返しているばかりの日常の営みをも悠然と、優しく包み込んでくれる。

 『風の旅人』を編まれた佐伯剛さんがシェアしていた日野啓三『書くことの秘儀』の一文を改めて読み、この広がりもまた、真似事でいいから、その一つであってほしいものだと感じ入る。

 「聖なるものは天国でも神でもなく、生命の根源の力に根ざしながら、いつでもどこでも、相対的でしかないこの現実を超える世界を思考し幻想し志向しようとする、われわれ自身の魂の運動そのものなのだから。」















 

2020年3月7日






 カメラマンのかたわら一年半はたらいた職場の様子を撮影することになり、この数日、数カ所の事業所をまわってメンバーのみなさんの仕事風景を間近で見つめた。就労継続支援事業のなんたるかも知らず飛び込んだ世界は、障害とともにある利用者が働く場で、スタッフはその指導などサポートをする立場、ところが手慣れたベテランもいれば、この場に来るまでに豊かな経験を積んだ人も多く、年齢も資質も様々、支援するなどとお世辞にも言えないこの凡夫は教わることの方がずっと多い日々だった。

 撮影の最後は、水耕栽培施設。すっかり仲良くなったメンバーたちと二時間あまり過ごし、いつものように丁寧にそして常に一所懸命取り組む姿を角度を変えてたくさん撮った。これは仕事というより、彼らに贈ることができる最後のプレゼントのつもりで、だからささやきかけるように撮りながら、心の交流をも楽しんだ。

 葉野菜が育つ大きな温室はほどよい温度と湿度に調整され、空気も雰囲気もとても穏やか、小さな種を蒔いたり、生育に合わせて植え替えしたり、大地に代わる発泡スチールを洗ったり、どの作業でも微笑みを浮かべているように静かな姿を見ていると、仕事というより、たぶん意識などせずとも植物と和やかに交流しているんだろうと思えた。

 普段はホテルのバスルームを清掃する施設外就労のスタッフとして出ることが多く、施設内で内職的な仕事に従事するみなさんとはほとんど一緒にいる機会がなかった、という関係でも、そこはカメラが本領発揮、穏やかな場の気も手伝って、愛くるしい表情や仕草を何枚もとらえることができた。あっちゃんがこんなにも可愛いまなざしで微笑むなんて、せいや君がこんなにまで透明なまなざしで見つめていたなんて、ファインダー越しで初めて気づくようなそれぞれの表情に出会い、本当にみんなのことが大好きなんだなあと信じられた。

 この就労継続支援のA型事業所は一般就労への橋渡しが一つの大きな役割で、利用者のみなさんはそれぞれの状況や調子を見ながら経験を積み、事業所は当然のごとく効率や収益を重要視している。パートタイマーのスタッフには、ことにずっとフリーで気ままにやってきな者には、どうにも息のつまる場面が多く、何かを改善する力もなく立場でもないくせに憤りだけ抱えこんでしまう好ましくない心持ちになってしまったものの、笑ってほんのちょっぴりでも会話し、時には肩を揉んであげたり、調子はどう?と小声でささやきあったり、そんなふうにみんなと居ることはほかのどこにもない幸せを感じるひとときだったんだと、今になって痛いほどに感じている。

 蒔いた小さな種が芽吹くときに湧きあがるなんとも言えない幸せな気分と、これはとてもよく似ている。人の心の中にはきっといろんな種が宿っている。ともに過ごす場が調い心と心を交わすとき、その種は微笑みとなり歌や踊りにもなり、目に見える形で外へと表れる。これこそ人にある、優れた生き物としての、表現というものではないのか。水耕栽培施設から戻っての休憩時間、微笑みを交わし合う間柄になれたなのか、あっちゃんがゆらゆら揺れて天にも昇るように踊って、また微笑んでいる。年甲斐もなくなんだかその大きな体に抱きつきたい気分になった。

 ありがたいなあ、みんなが教えてくれた、この幸せ気分、ほんの少しでも真似して天使みたいに微笑むじじいになっていけるだろうか。

 場はとても大事だ。働く場であろうとどこであろうと、種を育むことを最大の使命とする。

















2019年9月12日

十年目のプレゼント



 何人かの親しい仲間が共同で贈り物をする話はよくあるだろうが、その贈り物が結婚祝いの記念の無料撮影券というのは滅多になさそうだ。ましてご指名を受けたカメラマンとなり、撮影料として三万円をすでにいただき、それが十年も前のこととで、いい歳をした頃合いになると、このまま撮らずに終わるのではと気になって仕方がなかった。モデルの友人に折にふれ催促し、ようやく実現。まるで夢がかなったかのような気分で、撮る方も撮られる方も、幸せな半日を過ごすことができた。

 十年ひと昔とはよく言ったもの、写真の環境を見ても隔世の感がある。今の気分からするとフィルムを詰めたローライでじっくり向き合っても良さそうなところだが、仕上がりはネットを介して作るアルバムとして設定し、お二人の希望にそったロケーションで、いろんな表情をパチリパチリとデジカメで何枚も撮った。撮影がどんな風になるのか想像もつかず気になるのはモデルとして当然のこと、抱えていたちょっぴりの不安を思いっきりよく裏切ることができたようで、最終的に手にするアルバムそのものはもちろん一番の楽しみ、さらに撮られる経験もプレゼントとなるようなひとときにしたかった、というわけだ。

 三十度を軽く超えた折からの残暑、二人とも汗びっしょり、それも十年の歩みがあるせいかどんなことも全てが味になるような気がした。別れ際に思いついて、十年を振り返った今の気持ちやお互いへのメッセージを書いてみたらと提案すると、忙しい僧侶の友人は一瞬戸惑いながらも、年内完成なら行けるかも、と承諾してくれた。想像するだけで、なんとも幸せな気分になる。この機会をプレゼントしてくれた福井の友人たちに感謝したいのは、むしろこのカメラマンの方かもしれない。この撮影が当時すぐに行われたなら、到底この展開にはならなかった。せいぜいが二、三枚の写真を台紙に貼るか額装するに過ぎなかっただろうか。これならもう三十万円ほどの価値、十年待った甲斐がある。

 それにしてもこの写真、お二人の今を表しているようで、実に興味深い。日が傾き出し、夫人のふるさとでもある越前の海がキラキラと輝いていた。ここがいいと車を止め、最後のシーンとして収めることができた。気功や整体にも精通している友人は、ちょこんと腰が引けて、それが丹田に力がこもっている姿勢にも見える。朴訥な人柄に惹かれたに違いない、なんとも幸せそうだ。










2019年5月2日

遺影写真を撮ります


今年は、いよいよと言うのか、待ちに待ったとでも言ってしまいたいくらいの、高齢者の部類に組み込まれる世代となり、単に年を食っただけの話でも、なぜかその資格を得たような気分で、念願かなって遺影写真家を名乗ることにした。温泉旅館の広告撮影や昨年からパートタイマーとして始めた就労継続支援事業のスタッフの立場があり、おまけに趣味程度の野良仕事に、何がしかのもの書くという夢までたずさえており、これでもかとういうほどごった煮状態の日常にあって果たして遺影写真の専門家になれるものか、我がごとながらふらふらと宙ぶらりんな残生を、今日までと同様に歩くことになりそうだ。
 
 掲載のこの一枚の写真を撮らせていただいたあの瞬間に、遺影写真という分野が明確に目の前に現れた。当時の日記にその思いが滲んでいる。

 「いつの日か遺影写真を撮りたいと思うようになって随分と経ってしまったのは、命の何たるかを知らないで到底撮れるものではないと思っていたから。その心の重い扉を開けてくださったのが、この渡部さんだった。建具屋の三代目として生涯家業を営まれた。ご子息の結婚式を撮影した翌朝、撮らせてもらいたいと胸の鼓動を抑えて願い出た。ああ、いいですよ、意外にも軽く答えられるや、ゆっくりとパジャマの上着を脱がれた。ベッドの上で過ごす時間が一日の大半を占めているようで、弱々しい老人の姿を前に、撮りたいと思ったはずの気持ちなど跡形もなく消えてしまった。
 撮影前のほんの数秒間、目と目を合わせた。いきなりファインダーを覗くなど無礼なことだと無意識にでも感じたのかもしれない。老いとはどうやら枯れて行くもののようだ、なのに、あの瞳の奥で鋭く、しかもほのぼのと光るものはいったい何だったのか。フィンダーの中の渡部さんがこの小心者を圧倒し、睨まれた蛙のように、心にもレリーズボタンを押す手にも緊張が走った。職人の魂などと簡単な一言をしたり顔で使うわけにも行かず、長い年月を歩いて来られた果てのその最晩年に出会っているという、ただただ静かな感動に包まれた。」

 あの日から六年ほども経った。だから、ようやく、いよいよという気持ちになっているのかも知れない。相変わらず、命の何たるかなど知る由もなく、職人にも、写真家にも、ついには結局一人前の人間にはなれず、このまま終わることはほぼまちがいなく、切羽詰まって動き出すしかないというのが本音というところだろうか。

 まあ、いいさ。人間に完成や完熟があるとも思えない。

 同じ頃、おやじについても書いていた。

 
「定年退職後に関連会社の社長職に納まり、仕事一筋と言えば聞こえは良いが、本当に仕事上のつきあいしかなかったようで、今では日がな一日テレビの前に座りつづけ、まるで切り株のような人になっている。それで何の苦痛もな不平不満もないらしく、これが意識してのことならまさに覚醒した人に思える。
 昔話を聞いておきたいからと、おやじと最後に飲みに出かけたのはもう何年も前、今ほどの物忘れもなく、いろんな話をしてくれた。軍隊に志願したのは少しでも人の上に立つため、と言いながら伍長止まりで、時折差別的な呼称で隣国を呼んでいたのを思い出す、極々普通のどこにでもいそうなありふれた日本人だった。
 県の職員時代に汚職の前科があった。その顛末を聞いておくのは息子の務めだとも思った。『なあに、あれは業者に呼ばれビールを一杯飲んだだけ。あん時の上役が行けと言うから行ったまで、まったく馬鹿な話や、新聞はあらぬことを書き立てたしなあ。』どこか懐かしそうに話したおやじの言葉を息子は信じるつもりだ。世の中の動きなどに何の疑問も感じない、愚直で馬鹿正直な人だったのか、せめてこの世に一人ぐらいそれを誇りに思う人がいていいはずだ。
 たまにレンズを向けると、小さくはにかんでみせる。撮る撮られることを通した、これも父子の会話だろうか。」

 その父も、昨夏天へと召されて逝かれた。死者ともなれば、生前には思いもつかなかった敬う気持ちに包まれる。遺影写真にするつもりで撮った縁側での写真が親戚連中に妙に評判が良く、毎日恩着せがましく眺めては、話しかけている。

 写真の力の一つはその記録性にあるが、静止した画像の中から浮かび上がる実に様々な思いがますます見つめる者の想像力を膨らませ、あの世でもこの世でもない、その間(あわい)を埋めるような不可思議な力こそ、唯一最大のものではないだろうか。ことに、遺影写真というより、食卓で何気に撮ったこの一枚のような、生きていることに、ましてや撮られていることなどにまったく頓着しない瞬間に、ああ、あの父がいるような気がしてしようがない。

 どうせなら、撮るために出かける遺影写真の撮影場所でも、お互いに生きていることからほんの少しでも離れられるような時間を過ごしてみたいもの。

 何のために生まれてきたんだろう、死までの刹那、宇宙の営みからすればまさに閃光でしかない塵のような日々の中に、溢れるほどの思い出が詰まっているなんて、夢だろうか、ほんとうに夢、なのかも知れない。


遺影写真館 言の葉とともに
https://kazesan63.wixsite.com/iei-kotonoha










2019年1月1日

巫女の舞


巫女になった孫娘の鈴のお祓いを
何度も浴びて、今日この日から
何ひとつ怖れることなく
安心して暮らそうと決めた元日。