2020年11月10日

夢とか希望とか



  

 懐かしいブログを見返した。あのころは天真爛漫、などというよりあっけらかんと能天気なただの凡夫で、今はニヒリズムに浸って楽しんでいるようなただの凡夫。それでも読んで思い出したことがいくつかあって、その筆頭は、友、だろうか。この人生の友人は数少ない、そして少ないからこそ、一人一人の友との思い出が蘇ると、今でもその日々で感じていたことやシーンが、まるでスクリーン上に再現されているかのように鮮やかに心の目に浮かぶ。

 この一二日、夢とか希望、あるいは願い事という、おそらく人間しか持ち合わせていない、心なのか頭なのか、とにかく精神活動の薄っぺらさについて考えている。それが薄いのはこの凡夫の特質なのかもしれない、けれど私的にはとても重要な、命まで賭けたはずの願い事が叶わなかった現実を生きているのは間違いなく、夢や希望なども含め、実現しないことは案外多いだろうと推測するしかない。要するに一見前向きで積極的に思える夢などは、ただただ描いているだけなのではないか、と少なくとも自分自身についてはそう言える。

 たとえば、世界平和。軍需産業の経営者でもないかぎり世界平和を望まない者なんてほとんどいないだろう。それを夢として願うことはおおいに結構だし、だれもが是非とも叶えたい夢のひとつだろう。人類が誕生してのち今日までの長年月、では平和な時代はどれほどあったんだろう。だから不思議で、夢とか希望、願い事の類がどうにも不確かな、まさに見ているだけの薄っぺらな夢なのではないか、と。

 重度障害を背負った初めての国会議員の一人、木村英子さんは、政治家としての活動を振り返った「一年の軌跡」という動画の最後で、こんな夢を語っている。

 「自分から社会参加して、自分が社会の一員として、可能性を活かしながら、役割を持っていくということは生きがいにつながると思うんですよね。誰でも社会に必要とされたいって思っている‥‥(中略)‥これからの障がい者のひとには、地域に出てきて自分は迷惑な存在なんじゃなくて、社会の一員として構成員の一人として必要なんだっていう社会が実現できたら、本当にそれが私の夢ですね。」

  この夢は是非とも応援したい。彼女自身がその夢に向かってたゆまず行動している、その姿に凡夫でも度々感動している。夢は叶わないかもしれないのに、その夢を語る木村さんの微笑みを見て、その美しさに感動もしている。

 そして思う、夢は描くというより、描いて叶えるというより、生きるものなんじゃないか。

 はじめに掲げた懐かしいブログの頃、なんとなく夢見心地の毎日だったような気が、今になってしている。いいや、今日までずっとそうして暮らしてきたのかもしれない。何をやっても中途半端で、深まりのない、宙ぶらりんなこの人生を木村英子さんなら一笑に付されるだろうか、いいや、もしかすると、羨ましいわ、などと微笑んでくれるかもしれない。

 ではこの凡夫は、木村さんのように、夢を生きてみる、という風に切り替えてはどうだろうか。かなりハードルの高い技に思える、まずは夢見心地ではなく、生きるための夢を描き、そうして真剣にその夢とともに生きる、書くほどにハードルが高くなる。

 生きるということは、友や夢に出会うこと、かもしれないと、ここまで書いて感じている。それも数でなく、深みのある出会いがいいに決まっている。夢はまた実現するか否かの結果ではなく、それを生きながら、その先に、より大切な何かがあるのだろうと想像できる。

 この現実で生きていることじたい、夢のように儚いものなのかもしれなくて。

 











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