2016年12月2日

老後の蓄え



 人は老いるにつれ蓄えが必要になるもののようで、そのとば口に立つ今、何を蓄えようかと思案したあげく、言葉にした。言葉を蓄えるという意味は自分でもまだよく掴めていないけれど、余生を生きるにはとても重要な気がする。バブルの時期に面白くなった仕事が重なり分不相応に得た金で次々と機材を購入した。それがはじけて後は、使う機会のないがらくたがごろごろ残り、そのほとんどを近所のカメラマンにくれてやった。金も仕事も機材もおまけに甲斐性もない凡夫は、だから言葉を選んだのかもしれない。

 蓄えは先行きの不安を解消するためにあるんだろうが、金がすべてを解決するわけでないことぐらい誰もが知っている。ましてやあの世に持参できるわけでもない。突き詰めれば、生きることと喰うことを同等に見るか、それとも生きる意味とか価値とかをお前ならどこに求めるのかと考える、という生き方のちがいなのではないか。吹けば飛ぶよな人生に果たしてどれほどの価値があるか。それを探りながら老ぼれて行くためには、やはり言葉こそが支えになる。

 言葉を蓄えるために、「小説の書き方」を学ぶ、孤高の作家の、丸山健二塾を選んだ。否、選んでもらえたのはこの凡夫で、ただでさえ先行き不透明な暮らしを顧みず、必要な入塾費になけなしの金を注ぎ込んだ。念のため家人に相談すると、どうせやるんでしょ、と一言返ってきただけだった。なんとも情けない。いつまで青臭いままで夢を見ているのか、言葉なら金を使わなくても操れるではないか、夫婦でありながら互いを尊敬し尊重する人であったか、など次々と複雑な思いが湧き上がり、今も燻り続けている。

 迷いはじめた最後はいつもこうだ。このままやらずに生きてそれで後悔はないのか。束の間の人生を悔いなく生きるためにカメラマンになり、あの時もこの方に、同じような言葉で告げたのだった。好き勝手に生きて死ねばいいと、思われて仕方ない人生に、ほとんど愚痴もこぼさず付き合ってくれた。償いは、どうせ人生など片時の幻でしかないなら閃光のように輝いてみる、ということかと、これもまたおのれの都合で考えている。

 撮るつもりでいる者がなぜここへ来て書くことに精進するのか。少なくともこれから一年は払い込んだ大金を足枷として、しかも不安定な暮らしに一切動ずることなく真剣で臨むつもりだ。書くことは撮ることと同じように、もしかするとそれ以上に見つめることがまず必要になるだろう。対象は外にばかりあるでのはなく、内にもさらには見えない領域にも広がって行くのだろう。その時、たぶん老いさらばえて行くことは何よりの宝になるはずだ。

 不安を減らすために人は金を蓄える。ならば、書く人は不安を材料に書きながらしぶとく生き延びる。だがただ書くのでは所詮は独りよがりで陳腐なものになるのは目に見えている。どうせなら尊敬すべき先達の道に一度は交わり、教えを請い、書くとはどうすることなのかを覗いてみたい。

 書きもしない今から血肉が震え、これこそが生命力なのではと、想像するだけで、この道は歩き甲斐がある。大金をゆうちょ銀行口座間の手数料無料を利用して送金し終え、半ば呆然としてATMを離れた。青味がかった厚い灰色の雲を背景に架かる虹が鮮やかに目に飛び込んできた。前を見て、胸を張って、郵便局の裏の家へと帰った。