2020年10月22日

白山にて、星々とともに


 
 朝まだきの公園などで気功しながら過ごすようになり、晴れた日は星々を仰ぎ見る楽しみが生まれた。これはまさしく、実に楽しく、愉快でさえある。高齢者の仲間入りをする世代になるまで知っていたのは北斗七星やオリオン座ぐらいで、最近これにようやくシリウスが加わり、その名前を口にして手を合わせてみたり、向き合って練功したり、まるで懐かしい旧知の友に出会ったような小さな感動を味わっている。星々と語らう、と言ってももちろん一方的な会話でそれも実際に声を発するわけではないから、語らうというのは当たらないかもしれないけれど、二時間あまりも星空の下で過ごす気分はやはり語らうが近い。

 先日、千葉の友と二人で白山は南竜ケ馬場に泊まった折、ボランティアとして山小屋を閉じる作業に当たっていた男性がご親切にも星の撮り方を教えてくれ、改めてカメラを据え、早速そのように撮ってみた。ISO感度は800、絞りf3,5、露光時間は10秒だったか15秒。確かに天の川まで綺麗に写り、若干の補正を加えて上の写真ができあがった。

 下の写真は、その前に自己流で撮っていた一枚。ISO感度は400、絞りf8、露光時間は10分ほど。カメラや三脚以外の便利な小道具は持たないので、レリーズボタンを人差し指で押さえたまま動かずにじっと星空を眺めていた。人の目に止まっている天体は、実はこうして北極星の周りをぐるぐると廻って動いていることを、誰もが何かで見聞きして知っているわけで、それでもとても不思議な気分になるのはなぜだろう。星々のこと、ましてや宇宙のこと、それに地球のことにしても、まだまだ人間の力では到底及ばない世界が広大に、それこそ無限に広がっている。不思議で当たり前、なぜ毎夜変わらずに星は運行しているのか、それも何億光年も前に発せられた光を目の当たりにしているなんて、いくら想像してみても、不思議でたまらない。




 星々とともに過ごすひとときを持つようになり、大きく変わったことが一つある。心の中の見えない変化だから実証のしようがない分、この内側で感じ取れる領域の広がりは日中にまで残り、やがては再び訪れる夜にも、つまりは連日連夜の変化ということになり、もはや変化というより、これが人間という存在なのかもしれないと、星々が教えてくれたような気にもなる。

 何をやっても中途半端で、何を描いても決して最後まで到達しない、このまま実にいい加減な人間で終わりそうだと、自分でも分かるようになった。それでも気功ぐらいは死ぬまで続けよう。そうして星々を仰ぎ見ることは、星々に見守られていることでもあるのか、内側で広がるものの一つは、どうやら安心、というものかもしれない。それもかなりスケール感のある安心で、雑然と繰り返しているばかりの日常の営みをも悠然と、優しく包み込んでくれる。

 『風の旅人』を編まれた佐伯剛さんがシェアしていた日野啓三『書くことの秘儀』の一文を改めて読み、この広がりもまた、真似事でいいから、その一つであってほしいものだと感じ入る。

 「聖なるものは天国でも神でもなく、生命の根源の力に根ざしながら、いつでもどこでも、相対的でしかないこの現実を超える世界を思考し幻想し志向しようとする、われわれ自身の魂の運動そのものなのだから。」















 

0 件のコメント: