2016年4月20日

コミュニティ


能登の家じんのびーとの田んぼにて


 福島の子供たちを応援するFKキッズ交流キャンプの新しい展開を目論んではじめた小さな上映会、「FKシネマ」と名づけてこの半年近く20本ほどの作品を上映した。ほとんどいつもお客は数人、ゼロという回も何度もあった。自分が観たいから思いついた場でもあり、人を集める努力をしていないのが最大の原因だろう。いくらネット上で告知しても、個人的なつながり、あるいは人間としての信頼度が足りないということがあるかもしれない。

 ところが春になって共催の声がかかり、どちらも盛会だった。「金沢エコライフくらぶ」と、「コミュニティトレード al 」の場と人を借りての上映会を経験し、一人の力の限界を感じている。団体、組織というものに所属するのは好みじゃない。けれど、人は一人では生きて行けないことも十分に理解している。つながり、連携、共同、協同あるいは協働、それらは生きる場であり、生きるための礎にもなるだろう。

 al の前につくコミュニティの意味を考える。地域社会という集団、共同体の中でだれもが生活している。意識せずとも場があり、自ずと所属し、なんらかの恩恵も受けている。視点を変えて、個から地域に貢献する流れを大事にすると、地域じたいはどうなるだろうか。町内会のお世話のほか、さらにそれぞれの得意を活かした関わり方が広がれば、そこで生まれる場の力がまた個に返ってくるかもしれない。

 今回共催した映画は、ファースト・ファッション界の闇を描いた『ザ・トゥルー・コスト』。al に寄せられた数々の鑑賞後の感想から、世界を見渡すことの意義と、それを生活に反映して生まれる波及効果が想像できる。

 忘れてならないのは、問題がひとりファスト・ファッションの業界だけに留まっていないということ。『ザ・トゥルー・コスト』に限らず、FKシネマで上映したドキュメンタリー作品のほぼすべてが世界中の問題をするどく抉り出している。利益最優先はグローバル企業ばかりか世界各地にあふれかえり、苦しむ貧困層を踏みつけ成り立っている。果ては個々の暮らしはどうだろうか。まずは我が身と、だれもがなんの疑問も挟まずに生活を描いている。コミュニティを考えるとは、まだ意識に上らないその疑問に向き合うということでもありそうだ。

 FKキッズが無償でお借りしている能登の家じんのびーとでの米作りが、2年目を迎えた。去年はキャンプで野良仕事に集中できず散々な結果に終わった。志向する自然農には作物に任せるという捉え方があり、どうやら放任することと勘違いしていたような嫌いがある。自ずと自らの力で成長する作物に人が関わるとはどうすることなのか。始めたばかりの素人にはわからないことだらけだが、今ひとつ感じているのは、育つ環境をほんのすこし調えてやること。たとえば草刈りはどうやらとても重要だ。稲に限らずどんな作物も、ことに幼いころはたくましい草たちに負けてしまう。もちろん無肥料無農薬、でも地力が乏しいなら米ぬかや油粕は必要なようだ。

 田畑に立つと、ここもまたコミュニティであることを実感できる。半端でも片時地域に居る一人として、さらには身近な自然界の一員として生かされ、はたらいていることだけで生きている実感がわいてくる。痛む腰を労りながら黙々と鍬をふるうとき、この一瞬がコミュニティにどんな貢献をしているかと想像した。人と人、人と自然のつながりが時空を超えてしまうなら、必ずやなんらかの影響を及ぼすにちがいない。大事にしたいことは、ただひとつ、なるべく我欲を捨て去ることだろうか、コミュニティの輪の中では。