2015年1月31日

魂がふるえるとき




 録画しておいたNHK「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」で石牟礼道子さんの回を見た。石牟礼さんは、魂という言葉を何度か、しかもさりげなく、まるでこぼれ落ちる雫のようにとても自然にささやかれた。魂の存在を実感できないでいたこの凡夫は、その飾らない表現に戸惑いながらも、見えない存在をこの世のものとして考えたいという気持ちになった。石牟礼さんの最近のインタビューが『風の旅人』復刊第4号にも掲載されていて、その最後にはこんな言葉が並んでいる。

 「『石牟礼さんは、“魂” とよくおっしゃるけど、眼に見えないものを信じるのか』って言われたことがありまして、びっくりしましてね。魂があるから、ご先祖を感じることができるでしょ。みんなご先祖を持っているわけですね。それは人間だけでなくて、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる。それは、美に憧れるのと同じだと思います」。

 目先のことばかりに気を奪われて暮らしていることに、実はもうとても疲れている。写真家を志しながら撮れない日々が続いているのも、それと無関係ではないだろう。インドの人生哲学になぞらえればそろそろ林住期や遊行期を意識し出していい頃合いかもしれない。この数年福島の子どもたちを招いて開く保養キャンプに熱中している。子育てが遠の昔に終わっているのだから、人生の終盤ぐらい自分ではない他者のために生きてみるのもよさそうだ、ぐらいの軽い気持ちから始めたことだった。それが今ではどうだ。何十人もの仲間と出会い、おそらく二百人を越える子どもたちと身近な自然に抱かれ、負けずに飛び跳ねている。この変わり様に、自分が一番驚いている。

 子どもは未来、などという言葉は垢にまみれて使い古されたものにしか感じられなかったが、実際子どもたちと出会い体丸ごとでふれあう仲になると、彼らが未来そのものであることがまるで手に取るように実感できる。キャンプ期間中などは、あらゆる瞬間に未来を感じている。未来が笑って泣いて、目の前で呼吸している。ボランティアなどにはあまり関心がなかったせいか、有志の力で成り立つキャンプは多分その類いに含まれるものだろうが、今もほとんどその意識がない。これはボランティアでも助け合い運動でもない。出会ってしまった未来という仲間と、果てしない夢を追う、個人的にはほとんど写真を撮るという行為にも似た、いわば表現活動だ。熱中して、もう止められない、生きるという範疇に入る、とても自然な行為だ。時に心身がふるえるような瞬間に出会うけれど、もしかすると、震えているものの正体を魂と言うのではないか。石牟礼さんがさらりと言ってのける魂の響きを、少し感じられるようになっているかもしれない。

 キャンプの仲間には、その道で豊かな経験を持つ人も多い。自然体験活動というジャンルがあるくらいだ。だが経験は時に邪魔になる。このキャンプには表面的な課題がとても多い。多いという程度では済まされない。むしろ課題で出来ていると言っていいだろう。素人が代表をしている会の活動をお決まりな枠に、あるいは先進的なものを当てはめ調えようとすると、関係がぎくしゃくしてしまうことを何度か経験した。キャンプを滞りなく無事に成功させることを目標にするのは大事なことだが、それ以上に、課題を克服することじたいを、そのプロセスの中から生まれる交流こそを、もっとも大事なものとして抱えていたいと考えるようになった。ここからは想像に過ぎないけれど、そうして抱えているものの中に、魂が伝えようとしている生命の息吹きがあるような気がしてならない。眼の前の見えているものだけで判断してはならないのだ。傍で飛び跳ねている存在こそが未来なら、視線は出来るかぎり遠くへと注ぐ必要があるだろう。

 石牟礼さんは、しかも先祖の話をされている。ひとりひとりがこの世に生まれ落ちるために、いったい何人の先祖が存在したものだろうか。生まれてきたことに意味があるとかないとかの話ではない。すでに何千年という壮大な時間をかけ、何世代も受け継いできた人間と、そして生き物たちの長い長い歩みのほんの一部が今、眼の前に現れているに過ぎないことを、魂という存在を通して考えてみようではないかと、先達はそう示しているのだと思う。やがてはだれもが先祖になる。未来の礎として、魂を手渡すようにして。