2014年9月18日

写真が恐い




 長年撮り続けてきて思うことがある。一瞬が定着する写真の恐さというのか、写っている人のさりげない表情が映し出す心情まで感じられることだ。先日ご縁をいただいて撮った結婚式の、集う人たちにあふれている微笑ましい表情の数々はさすがに晴れのひとときを感じさせた。幸せを祝福する人の姿はまぶしい。母が娘に向けるまなざしからはぬくもりや優しさという心模様が表れている。おそらく意識はされていないのだろうが、撮っているとそれぞれの瞬間が表しているなにがしかのものを感じて、いい気持ちにもなり、あるいはその逆に恐くなることもある。福島の子どもたちとのキャンプ中に撮られた自分のさりげない瞬間の写真を見て、その無表情ぶりに愕然とすることがある。心が動いていない、感動する瞬間がないのだろうか。一枚の写真に己の今を突きつけられる。恐い。日常の時間は停まることがなく、見逃していることがいったいどれほどあることか。あれやこれやと気づかないまま、だから苛まれることもなく生きていられるのかもしれない。










2014年9月17日

岩よ





 中秋の名月の夜になると、いつも過ごしたいと思う場所がある。白山の峰だ。ことに翠ケ池を過ぎた辺りが気に入っている。最高峰の御前峰、噴火の凄まじさを思わせる剣ケ峰、柔かな懐を感じる大汝峰の三峰に囲まれて、おかしな話だがまるで眠るようにして彷徨い歩いた。いつにない夜更かしも手伝ってか次第に意識が遠のいて行く。金沢の町からもそう遠くない場所に、霊山がある。これも縁と言うのか、ふるさとに白山がある。

 冴え渡る十五夜の光が地上に降り注ぐ。ヘッドライトを消す。闇に漂うものがある。冷気か、それとも何ものかの気配か。闇夜と言うには月があまりに明るいけれど、だから一層陰が深くなる。見えないものさえ浮かび上がってくる気がした。どうやら怖じ気づいている。深夜の峰を望みながら、なんとひ弱な現代人か。

 岩岩が目に飛び込んできた。やや歩道を外れて立ちはだかるように転がっている様は何度も歩いて見慣れているはずだが、いつもの様子とまったくちがった。明らかに生きて存在している、としか思えなかった。噴火の際に飛び出し転がって来たのか、マグマが冷えて固まったのか、あるいは地上にせり出して来たのか、それらの由来を知らずとも、そこにあるのだからあるとしか感じていなかったものが、実は確かな存在感を放っていた。

 白山は一億年前は湖底にあったという。十万年前には標高三千メートルを越える古白山火山があり、三、四万年前に今の山頂部で白山火山が活動しはじめている。翠ヶ池は、1042年(長久3年)の噴火でできたそうだ(白山観光協会)。

 とにかく岩は生きながらえている。見える形あるものとして、あるいは内に凝縮する力に反発するようにして見えない気を解き放ってもいた。漂うのものの正体かもしれない。

 命とはいったい何者なのか。白山を歩くと、決まって命のことを考えている。生きていることが不思議でしようがない。その意味もわからず、やがて死が訪れることもまた不思議だ。今ここに存在しているのかさえ疑わしくなる。こうしてネット上に書き込んでいても、結局は何も残らないのだと思える。

 さえずりというほどでもなく小鳥が声をあげた。野生には昼も夜も、悩みもないのか。岩よ。泰然として存在するものよ。せめて何度でもあなたに会いに行こう。