2015年10月12日

デコ屋敷




 三春に行くんだったらデコ屋敷に案内してあげる、と郡山の友人ともこさんに誘われるがままに付いて行った。観光地にはさして興味は湧かなかったけれど、平日のせいか閑散として、村の往時を偲ぶにはうってつけの少し肌寒い日和。来てよかったなあとすぐに感じた。二三軒ある店の中をのぞくといつかどこかで見かけたことのある三春駒や色鮮やかな三春張子などの人形たちがぎっしりと並んでいた。案内文を読めば人形作りの起こりは三百ほども前で、観光化されているとは言えこうして今も脈々と当時のまま受け継がれていることに少なからず感動した。人形を作る集落があったなんて、できることならタイムトラベラーになって昔の様子を覗いてみたい気がした。各店にはつい最近まで看板むすめならぬ看板おばあちゃんがいらしたようで、絵付けをしている写真が飾られていた。

 仕事場を覗くと、頬っ被りをしたおばあちゃんがひょっとこの面に黙々と下地を塗っていた。懐かしいと感じたのはなぜだろうか。老婦が働く姿はいつどこで見ても美しい。何枚か撮らせてもらった。横で紙張りの仕事をしていた女性がいろんな話をしてくれた。おばあちゃんは八十を過ぎて、早朝の畑仕事を済ませたあと毎日四十分ほどかけてこの職場へと歩いてくるそうだ。この土地とよその町とではもしかするとちがう時間が流れているのではないかと思えるほど、なんとも豊かな、ゆるりとした心持ちになった。福島の知らなかった一面に出会い、またひとつ好きになったようだ。

 地球規模で流れる時間を捉えることができたらと、ふと思った。人が生まれ死ぬまでの時間はあまりに短い。けれど、一日なにものかに打ち込む人のそれには長短では計れない別の次元が存在しているのではないか。何十年とつづけてきた手慣れた仕事ぶりは俊敏だが、決して急いでいるわけでなく、むしろ時間が止まっている気さえした。不思議な土地だ、このデコ屋敷。

 二時間ほどもいただろうか。共に過ごしたともこさんとふたりの子どもたちに別れたあと、これからはまた新しい出会いを求めて福島を回ってみたいと思った。放射能汚染に悩まされる子どもたちを応援する保養プログラムが四年目に入り、いま初めて新しい気持ちになっている。生きている時間に、生きている時間だけではない、より広大な世界を覗くような旅をしてみたい、この福島で。















2015年10月9日

福島の日常




 「ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ」の同窓会に参加した折、郡山市内の幼稚園で開かれた写真教室の講師をつとめてきました。対象は若いおかあさんたち十数人。事前にお願いした課題の写真をみんなで鑑賞しながら感想や意見も交わしました。テーマは「家族の日常」。どの写真も、我が子を慈しむおかあさんのあったかなまなざしで捉えられていました。放射能汚染さえなければほかのどの町とも変わらない日常のシーンを見ながら、ちょっぴり複雑な気持ちにもなりました。

 折しも昨日、「福島の子供の甲状腺がん発症率は20〜50倍」という分析が公表されました。あれから4年と半年が過ぎ、福島の日常は昔と変わらないかのように営まれています。地域によっては除染土などを入れた黒い大きな袋が山と積まれる異様な風景が広がっていますが、人の暮らしはたとえ戦争にあっても営まれ、家族はより仲睦まじく生きていくしかありません。

 写真教室で伝えたかったことは、上手になるための技術的なアドバイスばかりではなく、撮る前にあるはずの、「見つめる」という態度でした。当然のように過ぎてゆく日常の風景でもよくよく見つめると、これまであまり意識に上らなかった発見とでも言えるような関係に気づけるかもしれません。大袈裟に言えば、親子の間柄に、人と人という関係を加えられないかと思ったわけです。

 写真に限らず絵画でも俳句でも、その道で表現するためには見つめることは欠かすことのできない大事な準備です。見えるものを相手にしながら、できることなら見えない何かに近づいてみたいのだと思います。

 我が子を愛おしむとは、どうすることなんでしょうか。よその子どもたちにまで目を配り思い遣るときそこに慈しみのカケラでもあるなら、見えないけれど大事な関係がすでに生まれているのかもしれません。子どもたちの心や未来は、見えないものの究極の大事です。そんな思いを抱いて撮ることができたら。おかあさんだからこそ、撮れるような気がします。










2015年10月8日

福島の気持ち





 こんな日本にならなければ福島にはたぶん出かけることもなく人生を終えたにちがいない。ということは、福島の人に出会うこともなく、福島の人の思いを想像することもない。だれひとり望むはずのない原発事故が起こり、ネットの情報で知るかぎりではおぞましいばかりの危機から奇跡的に逃れることができたという。それでいま、福島にも少しずつ日常が戻っている。

 ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプがご縁で出会ったけんちゃんとやすこさんご夫妻に二本松の提灯祭に連れて行ってもらった。高さ十数メートルの山車七基がロータリーに並んでいた。大勢の見物客であふれ身動きさえできない。写真を始めたころ何度も能登の祭に出かけた思い出が蘇ってきた。あの頃の祭は、祭をする地元の人たちのための、神と遊ぶ祭だった。今では熱気を感じても観光イベント化した雰囲気がどうにも気にかかる。福島は、同じイベントなのになぜか大きなちがいを感じた。みんな心底楽しんでいる、それが表情から十分に感じられた。

 災難を乗り越えた人の、あるいは難題を抱えながらも前を向いている人の瞳はきらきらと輝いている。そばにいると心の中で脈打っているいきいきとした力が伝わってくる。現状は決して楽観できるものではなく、むしろ不安に苛まれる日が多いかもしれない。人生は哀しみでできているとさえ時に感じるけれど、生や暮らしの中には叫びや踊りがあり、歓喜もある。神々しいほどの笑顔だってある。「負けてなんかいられねえ」。そんな声にならない声を抱きかかえている日常がここにある。

 福島の人たちの気持ちを想像しながら何枚も撮った。関心の的は祭ではなく、祭を生きている人たちだということを、撮りながら確かに感じていた。「生きているってすばらしい」。ここでなければどこぞの安っぽいフレーズなのに、それが実感として迫り、目の前で踊っていた。
 

























2015年9月4日

多恵ちゃん





 「わぁ、京都、行きた〜い」と、多恵ちゃんがいの一番に返事を返してくれました。一月末、京都シネマという小さな映画館で開かれた上映会でのぼくの出品作を観たいと、声をあげてくれたわけです。作品には『家族の時間』というタイトルをつけました。去年の夏、夫を喪った娘は母ひとり子ひとりになってしまい哀しみに暮れる毎日を送っていましたが、その様子を傍に寄り添う父や祖父としてというより、一写真家のつもりで撮り続けたものでした。いつか思春期を迎え悩み多い日々を過ごすかもしれない孫娘が、それに立ち向かって行くための支えとなるような写真として、今ある幼い素の姿を記録しておきたいという思いがありました。そしてそれらを上映する機会に恵まれ、多恵ちゃんに歌を添えてほしいと願い出ました。

 上映と言っても、映画ではなく動かない白黒の重い雰囲気の写真です。写真を始めて三十年も経つというのに、今頃になって自分にとっての本当の写真を撮りたいと思うようになりました。試作を観た多恵ちゃんは、治療の後遺症から満足に動かせなくなった指でギターを弾いたりしながら、どんな音楽を添えようかといろいろ考えてくれましたが、内容が内容だけに明確なイメージがわかなかったようです。最後には、わたしを選んでくれたんだから今のわたしのまんまでその場にいようと、決心されたようです。それは、こんな形になって表されました。

 『家族の時間』は、病院のICUの風景からはじまり、婿が眠る棺を囲んだ娘たちなど、生々しいシーンがつづきます。多恵ちゃんは、おもむろに鈴を取り出し、ひとふり、ふたふりと奏でました。定員が六十人の館内は立ち見が出るほどでしたが、だれもが息をつめてひっそりと静まり返っていました。今思い出すと、まるで神に仕える巫女のような多恵ちゃんでした。鈴の音だけが、波打つように人から人へ、壁を這うように広がりこだましました。この作品にはこれしかないと思えるスタートでした。
 しばらく沈黙がつづいたあと、多恵ちゃんは歌い出しました。それは歌というより、歌い手の存在からわきあがる音の静かな波のようでした。数分おきにフェードインとフェードアウトを繰り返しながら変化していく写真に合わせ、スクリーンの登場人物に、会場の誰もに、語りかけてくれたのです。

 タンタタタン、タタタ、タ〜ン、タンタタタン、タタタタ・・・
 おかあさん・・・おかあさん・・・、タンタタタン、タタタタン、

 沈黙ほど饒舌なものはないと、静かな山を歩きながらときどき感じることがありますが、そのときの多恵ちゃんの、言葉少なな歌、というより、声、というより、心そのものという音楽は、おそらく聞いているすべての人の中に饒舌な波となって届けられたのではと思います。

 タンタタタン、タタタ、タ〜ン、
 おかあさん・・・おかあさん、ほら、こっちだよ、おかあさん・・・

 上映がはじまったとたん、じつはプライベートな娘たちの姿を公開してしまったことを悔やんでいましたが、多恵ちゃんのささやくように、語りかけるように歌う、おかあさんの響きが、この場を知る由もない娘にも届いているような気がしました。癒しという言葉は好みではありませんが、多恵ちゃんはその存在をかけて世界を癒していたのではと、いまになって感じています。決して大げさでなく。

 なぜ、重い病にある多恵ちゃんに、京都まで来てほしいと願い出てしまったのか自分でもよくわかりませんが、多恵ちゃんしかいないと思ったのはたしかでした。行きたい、と声をあげてくれたのを幸いに、それじゃおいでよ、と言葉はとても軽いものでしたが、気持ちは割と重く、自分で言うのもなんですが深いものでした。写真家を目指すぼくの写真と、新しい音楽に出合いはじめた多恵ちゃんの、この世での最初で最後のコラボレーションにしようとまで話し合いました。

 それはなにも多恵ちゃんがこの世からいなくなってしまうことを前提とした話ではなく、ふたりの命をかけてもいいような、この世でたった一度の表現の場にしよう、という意味をこめたつもりでした。こうして書くと、命をかけるなどという大げさな言葉を使う資格がぼくにはまだあるように思えませんが、多恵ちゃんを思い出すたび、表現とは命をかけて表してこそ表現になるのだと思わないではいられません。

 多恵ちゃんと出合ったのは、長野県の女神山で開かれたアート・オブ・リビング・セミナーという集いででした。そのセミナーのサポートスタッフだったぼくはチラシを作り仲間内にも告知していましたが、それを見た多恵ちゃんは、「きれい、こんな美しいチラシのセミナーなら」と、この時もいの一番に参加を申し込んでくれました。

 今でも思い出します。会場で待ち受けていたぼくは、ああこれが多恵ちゃんだとすぐにわかり、「マサヒロです」と自己紹介し、「多恵子です」と微笑みながら答えてくれました。それからわずかに二年ばかりのおつきあいでしたが、どうやら人と人はふれあう長さだけではないようです。あのセミナーの最後に、多恵ちゃんはすっくと立って歌ってくれました。歌詞もメロディーももう覚えていませんが、死ぬまで忘れることができなくなった多恵ちゃんの存在は、これからの表現の力強い糧になってくれると思います。     









      


2015年5月12日

じんのびーと日記 #003





 連休明けのじんのびーとに残っているのは、玄関前のタケノコを器にした生花。コウキやカリン、シュンタロウらが掘ってきたもので、タケノコ掘りというより、背くらべできそうなほどの大物でした。つまりは、タケノコ折り(笑)。根元に近い節を器にしたようです。誰もいなくなった大きな家にいると、残された物たちの存在が目に入る度しんみりしてしまいます。子どもたちの黄色い声、おとうさんやおかあさんの寛いだ笑顔、楽しかった食卓、ますやんと呼んでくれるひとりひとりの声まで鮮やかに蘇ります。キャンプが終わってもこんな気持ちになったことはなかったのに、不思議ですねえ、これが家というものでしょうか。もう何年も前からじんのびーとに住んでいるような錯覚を覚えます。










じんのびーと日記 #002

 

 田んぼでの米作りなど素人が手を出せるもんじゃないだろうとずっと思い込んでいましたが、三年前の春、大土の田んぼオーナーとしてほんの少しの体験をし、さらにそこで出会った輪島の鴻さんの田んぼを何度かお手伝いする経験が徐々に気持ちを変えてくれたようです。聞けば、米はバカ草とか言われるほどに強い植物だそうで、自然農スタイルがもっとも相応しいのでは、などと勝手気ままに想像するまでになりました。かと言って、まったくのド素人が単独で臨むには相手が悪い(笑)。そこへこの連休中に滞在したけんちゃん(福島市)や智子さん(郡山市)ら農家出身の方々の力添えがあり、ますますその気になったというわけです。
 実は、けんちゃんとこの地区の区長さんでもある妹石さんが意気投合してしまい、ますやんがやる気なら手伝おうじゃないかという流れになってしまいました。こちらも男として引き下がれないという、なんともはや場にそぐわない思いも半分ですが(苦笑)。
 子どもたちも手伝った田植えの翌朝の風景、いかがでしょうか?こうして写真で見ると、なんとなく様になってますよね(笑)。みなさんが福島へ帰られたあと、今度はその同じ田んぼで種もみを蒔いてみました。時期が遅いことは読んだり聞いたりして分かっていたんですが、用意した種もみをそのまま放置する気になれずの強行です。四千粒もあれば十分に足りるだろうと思っていたのに、想像と実際はあまりにかけ離れ、ほんの一畳足らずのスペースにすべて収まってしまう少なさ。その上に細かく土をかけ、鳥や小動物に荒らされないように竹のドームをこしらえました。周りの溝にたまる水で湿り気を維持する感じです。ここまでの作業に三時間あまり、できることなら少しは格好になってもらいたいもの。プロが見れば、呆れて物も言えない風景かもしれませんが、気持ちだけはちょっぴり真剣です。金沢の自宅から離れた能登の地へ、はたして何回通えるでしょうか。妻や老いた親と別れて住みつくという選択肢のあることも常に抱きしめながらの様子見です。今回植えた苗は、区長さんから分けていただきました。水の管理もやってくださるとのお申し出があり、ますます真剣度が高まります。










じんのびーと日記 #001

 


 
 能登の家「じんのびーと」の暮らしが始まりました。常に人が住んでいるわけではないので、継続する暮らし、という言い方は当たっていないかもしれません。でも明らかに、此処での生活や暮らしが再び息づき始めました。
 どこからお話したものか。じんのびーとは、ゆっくり、のんびりという意味の奥能登の方言です。何度も能登に足を運んできましたが、これまで「じんのび」というひと言をだれからも聞いたことがないので、すでに消えてしまったんでしょうか。方言が使われなくなるのは、とても寂しいことですが。
 じんのびーとは、福島のみなさんを応援します。放射能汚染による被ばくから少しでも離れたい気持ちがあっても、それぞれが様々な事情を抱えての今だということを、福島の子どもたちとのFKキッズ交流キャンプを通して直に知り得ました。期間の限られた保養プログラムではなく、一年を通して各家庭の都合に合わせ好きなだけ滞在できる、言わば「保養生活」の場を提供しようというわけです。
 この自由気ままな田舎暮らしの象徴とも言いたくなるような出来事をさっそく体験しました。じんのびーとには田んぼも畑もあって、この管理人代わりのますやんはド素人の恐さ知らずを武器に自然農スタイルで野良仕事に精を出そうと目論んでいますが、今回初めての「保養生活」を体験したけんちゃん(福島市)が、耕耘機を持ち出して一二年放置されていた田んぼを耕しはじめました。けんちゃんは農家に生まれ、、子どものころから散々手伝ってきたそうです。自然農は不耕起を柱としていますが、けんちゃんにしてみれば、時間のかかることをしていないで便利な機械を利用すればいいと、ますやんの苦労を慮ってのことだと思います。そして、これこそがじんのびーとの真骨頂となるはずで、此処はそれぞれの気持ちを形にできる創造の場だということです。一枚の田んぼの中に、慣行農法あり自然農ありというパッチワークみたいな田んぼが生まれるのかもしれません(笑)。
 けんちゃんの指導のもと、ご子息のゆうたやFKの常連でもあるゆかい、妹のみなみが裸足になって田植えをしました。けんちゃんはなかなかに鬼教官(笑)、とくにむすこには厳しく、十数本ほど植えたあと、「や〜めた」と場を放棄してしまったゆうたでしたが、農家でもないみなさんが家族丸ごとで田舎暮らしを体験できる貴重な場になる予感がしました。
 連休中のこの「保養生活」は5月2日〜6日まで展開されました。わずか数日の滞在です。でもその中身ときたら、三週間の保養プログラムにも負けていなかったことを、これからゆっくりとご紹介、じんのびーと日記を気ままにお楽しみください。










2015年4月11日

一年生




     知っていますか?
     一年生になりました

     見えていますか?
     君にそっくりです
  
     届いていますか?
     この笑顔










 

2015年3月11日

小川




 飯舘村は、ほんのひとときぶらぶらしただけで気に入ってしまった。たとえばこんな小川。ありそうで、近ごろは滅多に出合えない。茅で溢れかえる身近な自然、降りて行く土手の傾斜や川幅といい子どものスケールにぴったりだ。田んぼの取水用なんだろうか。その用途など考えることもなく、あの頃の少年は小川を自由気ままに振舞える世界として一日中でも飽かずに過ごした。竹竿があれば川の中ほどをひと突きして向こう岸にまで飛び跳ねた。何度かずぶれになったこともあるけれど、そのまま川底を手や足でまさぐりぬるぬるとした感触を楽しんだのは、いったいなにが目的だったんだろう。ウグイ釣りも懐かしい。子どもの手作りの棹が十分使い物になった。

 今日は3月11日。あれから四年が経った。朝刊の、飯舘村村民へのアンケート結果を読んだ。およそ三割の人が村に戻る希望はあるかとの問いにイエスと答えていた。おそらくは若い世代を中心に帰還はますます考えにくいものになっていくだろうが、老いて行く人々には、この風景の味わいは離れてこそなお深く迫ってくるのではないか。よそ者にさえ、ただならぬ風景だ。

 福島県内に残る人たちの真意を疑う声を一頃よく聞いたものだ。危険な環境から避難するのは当たり前ではないか、子どもたちの健康や未来を最優先すべきだ、などと。だがそれは当事者が一番よく感じていることだろう。いまだに保養プログラムの存在さえ知らずに残って普通に生活している人たちもいるかもしれないけれど、それぞれが選んだ暮らしに対して事情も知らず無闇矢鱈と放言する気にはなれない。放射能の存在を気にしながら、それを毎日忘れることなく注意深く暮らせるほど人間は強くないし、だからと言って、なにもかも諦めて気ままに暮らしているわけではないだろう。

 飯舘村の中に入り半日ほども経った頃、除染の風景から湧き上がった違和感が気がつけば薄らぎ、風景そのものに馴染み出しているのを感じた。汚染された土地に人が戻って欲しいとは思わない。やがて戻る人たちがいたとしてもその行動をとやかく言うつもりにもなれない。土地と人の関係は、それぞれの人生で生きた舞台と主役のそれと同じだろう。どんなことも、選択は生き方、演じ方の問題なのだ。行く川の静かな流れを見つめながら、会ったこともない村の人たちのこれからの気持ちを想像してみた。










2015年3月10日

秘密の原っぱ




 写真の何たるかなどおそよ考えもしないで気ままに日常を撮り続けていたころ、近所の里山に秘密の原っぱと名づけた一画を見つけ、毎日のように通っていた。どこか田舎の小学校の運動場ほどもある広さで、以前は重機まで放置された、言うなれば廃棄物の捨て場のような草地だった。露が降りる朝など寝っ転がってその様子をマクロレンズで覗いては、ただただ感動していた。小さな世界の光り輝く美しさにため息が漏れ、いい年をしてときに涙まで流したり。今から思うとまるでおとぎ話に魅了された少女のようで、こうして書いてみると恥ずかしくさえある。

 飯館村の長泥地区を目指して林道を走っていると、なんとも懐かしい風景に出会い、思わず車を停めた。あの、秘密の原っぱにそっくりな空き地の中をひととき彷徨い歩いた。どこにでもありそうな山あいの、荒れ地。人の営みにとってはどれほどの価値もないかもしれない。だがそこには様々な生命が息づいている。目に見える木々や草花だけでなく、目を凝らしても見つけられない春や夏の野鳥、空中を舞い足下を這う様々な昆虫、地中は名もない微生物たちの住処、もちろん獣たちの山でもある。朝露が連なる蜘蛛の巣などに気づけば、まるで宝石でも拾ったように幸せな気持ちになるだろう。久しぶりの原っぱの感触に浸りながら、どうしてもまた放射能のことに思いが戻った。

 たとえば今の政治家や経済人から、自然、という言葉を聞いた記憶がない。彼らから連想するものは、経済、金、都会、街、電車、便利、コンビニ、デパート、買い物、薬、鬱病などと、上げれば上げるほど気が滅入る。人の暮らしは、もうどうしようもないほど自然からかけ離れている。たまの休みに出かける行楽が関の山。登山が趣味だとしても生活とは別の枠組みにある、それらは一種特別な埋め合わせの時間。身近な自然の中で、しかも身近な生き物たちの領域を冒さない暮らしというものを、いったいいつの頃より失ってしまったんだろうか。

 都会への電力供給という名目で、経済優先の原子力発電所を過疎の村に連ね、挙げ句の果てに愛すべき広範な身近な自然を破壊してしまった。人間には嫌でも仕方なくでも離れる選択があり、だが自然は汚されたまま取り残された。帰還困難区域。なんと身勝手な言葉だろうか。犠牲にあったのは、果たして何と何と何者なんだろうか。










2015年3月9日

ゲート



 帰還困難区域と呼ばれる地区が出来てしまったというのに、時間の経過と共にさもそれが当然かのように聞き流されている気がしないでもない。ゲートの前に立つと、これは悪い冗談ではないのかと思ってしまう。この先には、線量が高いという長泥地区がある、ようだ。人が住めないとはどういうことなのか、なぜそんなことが起こっているのか。わーっと騒いだあと、日本人はなぜこんなに静かになれるのか。自分のこととしても、不思議に思う。里山もここまで深く分け入ると、静かな風景の中で己の内側にも気が向くようになる。

 里から車で10分ほども走っただろうか。ゲートの前に辿り着くと、警備の人がぽつんとひとり立っていた。こちらを発見するや丁寧に頭をさげ、Uターンを指示した。降りてゆっくりと近寄る。「写真を撮らせてください」。旗やなにやらを移動して場所を空けてくれた。真正面から一枚だけ撮り、あなたの姿も撮らせてほしいと頼んでみた。「それはできません」と即答するマスク越の小さな声が聞こえた。放射能で汚され立ち入りできない地域の前で、一日中立っているのだと言う。仕事とは言え、他人事とは言え、なんともやり切れない気持ちになった。この状況は尋常ではないだろう。この状況に深く起因している人々は、果たしてどんな気持ちを抱いているのだろう。不思議でならない。帰還困難区域を設け、何かを解決した気持ちにでもなっているのではないか。帰還困難区域を作ってしまったことに、だれもなんの責任も取らない、取れそうにない。










2015年3月8日

日本で最も美しい村







 放射能被害が明るみに出るにつれ取り上げられるようになった飯舘村を調べているうち、「日本で最も美しい村」が全国各地にあることを知った。飯舘村もその連合の一員として、経済発展ばかりを掲げる国の方針などに頼らず独自の道をこつこつと歩んでいたにちがいない。その頃に「までい」という言葉もよく見聞きしたものだ。ネット上にこんな記事を見つけた。

 私たちは、親や年寄りから「食い物はまでいに(大切に)食えよ」「子供はまでいに(丁寧に)育てろよ」「仕事はまでいに(しっかりした・丁寧に)しろよ」と教えられてきました。手間隙を惜しまず、丁寧に、心をこめて、時間をかけて、じっくりと、そんな心が「までい」にはこめられているのです。

 飯舘村に入るとまでいが生きていた四年前の雰囲気が、今もそのまま残っているような気がした。見える風景は、住んでいる人がほとんどいないのだから、当然だが殺伐としていた。南相馬から県道12号線で八木沢峠を越えて入ると、道沿いの家にも畑にも人影はなく、降りてうろうろ徘徊することが憚られるほどに静かだった。田んぼはつんつん草で覆われていた。これが生えてくると厄介なんだと、すべて抜き取る作業に精を出したのは二年前に手伝った輪島の鴻の里でだった。飯館の田んぼは人にとって厄介なものの安住の地になっている。だが土地とそこに住んだ人の気とは凄まじいものだ。おそらく絶えることがないのではないか。野良仕事の声や笑顔が想像できた。

 日本で最も美しい村連合のサイトを探しても、飯舘村の名前はもう見当たらなかった。放射能汚染がこの村のすべてを奪い去った。あちこちで見かける大規模な除染作業でその場の線量はいくらかでも低下するだろうが、のびやかに広がる山並みを望みながら感じたのは、人間の愚かさばかりだった。村を愛した人たちはいまどこでどうしているんだろう。仮設住宅、避難という言葉は、他県の者には現実味が感じられなかったけれど、村に一歩踏み入り一軒の空き家を前に佇んでいると、その意味が言葉もなく急に押し寄せ、胸を圧した。

 日本で最も美しい村の人たちは、今も各地で静かな営みを続けているだろうか。営みは、当たり前に与えられるものではなかったことを、飯館村が教えている。までいに暮らせよ、と。










2015年3月7日

日常




 FKキッズ交流キャンプに何度も参加しているたとえばユウタはまだ一年生で、初めて出合ったのが三年前の冬、この間に成長する姿を間近で見守ることができた。この年頃の変化はとても著しい。どこか赤ん坊の雰囲気さえ漂っていた子が今では芯のある言葉を発したりしてハッとさせてくれる。非日常のキャンプと、この頃は気軽にお邪魔するようになった福島市の日常の様子とで、ますます身近な間柄になっている。ユウタの未来にいくらかでも参加していることに気づくと、福島原発事故がもたらしただろう数ある希有な出合いのひとつを経験している不思議と、その陰に秘かに隠れている責任のようなものを感じる。親ではないおとなの話に、子どもたちは真剣に耳を傾けていることを決して忘れてはならない。

 今でもときどき思い出すのは、あの冬のキャンプが定員を大幅に上回り、なんと四十人を越える参加者を招いたことだ。その最後の最後がユウタとおかあさんのヤスコさんだった。「ぜったいに参加したいんです。ズルしてもいいから入れてください」という電話での申し込みだった。面白い人だと思った。人の気持ちは、人へと乗り移るものなんだろう。ほかにも数ある保養プログラムの中でFKを選んでくれるという意味を考えることはなかったけれど、あのヤスコさんの子を思う親心が今の関係を創り出すきっかけになったことだけは確かだ。

 朝が苦手なユウタと、ユウタを追い立てるように行動を促すヤスコさんとのやりとりは、まるでホームドラマのようにしてどうやら毎日繰り返されている。放射能問題はこの国の非常事態ではあるけれど、日常は、ここでもほかのどの町の日常とも変わらず常に営まれている。大事な日常のために、キャンプなどの非日常があるのかもしれない。放射能問題にはできるかぎり注視しながら、大事なものは日常でこそ育む。人の営みというものは、いつも変わることがない。

 巨大な津波と原発事故が、愛すべき数々の日常を奪い、今も奪い続けている。福島の子どもたちと共に過ごしながら、だからそれを忘れたことがない。陰に隠れている責任とは、忘れないでいることかもしれない。どんな事態に陥ろうが、常に前を向いて日常を営みながら。











 

2015年3月6日

FKキッズ




 福島の子どもたちが放射能問題から少しでも離れることができるようにと、今も全国各地で保養プログラムなるものが開かれ、その気持ちのある保護者のみなさんがかわいい我が子を手元から離し参加させている。そんなプログラムのひとつ、「ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ」にかかわるようになり、これで有に百人を越える子どもたちと出会っている。ふくしまのF、かなざわのKが交流するから、FKキッズと呼んで、今ではまるで親戚のおじさんのような気持ちでいる。何回も参加している子にはとくに、キャンプ以外でも会いたいと思う。福島市で開かれた保養プログラムの相談会に出たついでに、福島の今を見ておくつもりで県内を駆け回った。いわきに入ったのが折しも下校時間に近いころで、もしかすると合えるかもしれないと儚い思いを抱いて、十人ものFKキッズが通う中学校へ向った。全員女の子だ。FKが初めて開いた夏のキャンプに四人、そのあとの冬にいきなり十人がやってきた。彼女たちとの出会いがなければ、FKはこうまで続かなかったかもしれない。それがおとなでもこどもでも、出会いがもたらす妙というものを感じないではいられない。

 校門から大勢の中学生があふれ出てきた。黄色い旗を持ち、さようなら、さようならとひとりひとりに声を掛けているおとなはおそらく先生だろうと、生徒の写真を撮る承諾を得るため近寄った。「教頭の許可を得てください。この頃はぶっそうな世の中ですから」との返事に、そうだよな、面倒な世の中になったものだと、時間を割いてみたが甲斐なく断られ立ち戻った。その数分間にお目当てのFKキッズが流れ出たものか、そろそろあきらめようかというころになって、ひとり、懐かしい顔が現れた。「やっ!」と近寄る。びっくりするのは当然だが、その後の会話がぎこちなく、続かない。親しい気持ちはあるけれど、思い出深い石川でのキャンプならまだしも、日常にいきなりでは馴染めないのもまた当然か。途切れがちに言葉を交わし、せめてものことにと、中学生になった姿を撮らせてもらった。

 ナナは落ち着いた子だ。真っすぐにカメラを見つめ返している。まだ撮り慣れていないローライフレックスを確認しながらゆっくりと操作し、無言で対話するようにピントグラスを覗いた。ほんの短い時間だったが、過ぎてしまうのがもったいないほど豊かな気持ちになった。日本中に大勢の子どもたちがいても、ほとんど出会うことなくそれぞれの人生は終わる。原発事故が起きてしまったがために出会った仲だと思うと、この一枚の写真がいつかおかあさんになった頃にでも改めて見直すときのために、丁寧にプリントして残しておきたい。老いながらも写真家を志す飽くなき者がキャンプの主催者でもあるのだ。子どもたちの素の姿を撮りたいと、ようやく思いはじめている。












2015年1月31日

魂がふるえるとき




 録画しておいたNHK「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」で石牟礼道子さんの回を見た。石牟礼さんは、魂という言葉を何度か、しかもさりげなく、まるでこぼれ落ちる雫のようにとても自然にささやかれた。魂の存在を実感できないでいたこの凡夫は、その飾らない表現に戸惑いながらも、見えない存在をこの世のものとして考えたいという気持ちになった。石牟礼さんの最近のインタビューが『風の旅人』復刊第4号にも掲載されていて、その最後にはこんな言葉が並んでいる。

 「『石牟礼さんは、“魂” とよくおっしゃるけど、眼に見えないものを信じるのか』って言われたことがありまして、びっくりしましてね。魂があるから、ご先祖を感じることができるでしょ。みんなご先祖を持っているわけですね。それは人間だけでなくて、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる。それは、美に憧れるのと同じだと思います」。

 目先のことばかりに気を奪われて暮らしていることに、実はもうとても疲れている。写真家を志しながら撮れない日々が続いているのも、それと無関係ではないだろう。インドの人生哲学になぞらえればそろそろ林住期や遊行期を意識し出していい頃合いかもしれない。この数年福島の子どもたちを招いて開く保養キャンプに熱中している。子育てが遠の昔に終わっているのだから、人生の終盤ぐらい自分ではない他者のために生きてみるのもよさそうだ、ぐらいの軽い気持ちから始めたことだった。それが今ではどうだ。何十人もの仲間と出会い、おそらく二百人を越える子どもたちと身近な自然に抱かれ、負けずに飛び跳ねている。この変わり様に、自分が一番驚いている。

 子どもは未来、などという言葉は垢にまみれて使い古されたものにしか感じられなかったが、実際子どもたちと出会い体丸ごとでふれあう仲になると、彼らが未来そのものであることがまるで手に取るように実感できる。キャンプ期間中などは、あらゆる瞬間に未来を感じている。未来が笑って泣いて、目の前で呼吸している。ボランティアなどにはあまり関心がなかったせいか、有志の力で成り立つキャンプは多分その類いに含まれるものだろうが、今もほとんどその意識がない。これはボランティアでも助け合い運動でもない。出会ってしまった未来という仲間と、果てしない夢を追う、個人的にはほとんど写真を撮るという行為にも似た、いわば表現活動だ。熱中して、もう止められない、生きるという範疇に入る、とても自然な行為だ。時に心身がふるえるような瞬間に出会うけれど、もしかすると、震えているものの正体を魂と言うのではないか。石牟礼さんがさらりと言ってのける魂の響きを、少し感じられるようになっているかもしれない。

 キャンプの仲間には、その道で豊かな経験を持つ人も多い。自然体験活動というジャンルがあるくらいだ。だが経験は時に邪魔になる。このキャンプには表面的な課題がとても多い。多いという程度では済まされない。むしろ課題で出来ていると言っていいだろう。素人が代表をしている会の活動をお決まりな枠に、あるいは先進的なものを当てはめ調えようとすると、関係がぎくしゃくしてしまうことを何度か経験した。キャンプを滞りなく無事に成功させることを目標にするのは大事なことだが、それ以上に、課題を克服することじたいを、そのプロセスの中から生まれる交流こそを、もっとも大事なものとして抱えていたいと考えるようになった。ここからは想像に過ぎないけれど、そうして抱えているものの中に、魂が伝えようとしている生命の息吹きがあるような気がしてならない。眼の前の見えているものだけで判断してはならないのだ。傍で飛び跳ねている存在こそが未来なら、視線は出来るかぎり遠くへと注ぐ必要があるだろう。

 石牟礼さんは、しかも先祖の話をされている。ひとりひとりがこの世に生まれ落ちるために、いったい何人の先祖が存在したものだろうか。生まれてきたことに意味があるとかないとかの話ではない。すでに何千年という壮大な時間をかけ、何世代も受け継いできた人間と、そして生き物たちの長い長い歩みのほんの一部が今、眼の前に現れているに過ぎないことを、魂という存在を通して考えてみようではないかと、先達はそう示しているのだと思う。やがてはだれもが先祖になる。未来の礎として、魂を手渡すようにして。