2020年10月26日

山を歩く




 千葉の友と二人で歩いた白山、これで何度目か、すっかり息が合って、とはどうやら思い込みだったようで、高山という自然はいつも優しく穏やかに受け入れてくれる訳ではなかった。二人ともそれなりに準備を重ね、ある程度の自信を持って臨んだものの、設定したルートはどうやら体力の限界を超えていた。こうして改めて写真を見つめると、背中の荷がかなり大きく重そうで、中身には避難小屋で使うシュラフにマット、衣類に食器、水や食料、友はなんと、山では野菜不足だからねと手作りのピクルスまであれこれと、優しい心遣いの重量ははかりしれない。

 初日のゴールはチブリ尾根避難小屋、予想外のスローペースで日が落ちてからの到着が見え出し、山岳ガイドをしている山形の友ならこんな時どうするだろうかと考えてみた。思い浮かんだのは、単独でゴールへ、空身で引き返し同行者のザックを肩代わりしてやるその姿だった。即実行。

 山歩きは、時に苦行で、それでも一歩一歩と歩を進めなければ決してたどり着けない修行のようでもある。好きで登っていることも、美しい周りの風景もすっかり忘れて、相棒はなんとも悲しくなっているかもしれず、そんな想像をめぐらすと、珍しく心配や不安が先行してしまい、己れの明らかな認識不足が悲しくて、悔やまれた。

 山を舐めている訳では決してない、ただし想像力が足りない。個々のコンディションを含め総合的な視点で適正な計画を立てるための、意識しての経験が圧倒的に足りない。山岳ガイドの力量たるやどれほどのものなのか、よくわかった。

 山を下りて、友は今どんな気持ちなんだろう。もう登ろうと言ってこないかもしれない。それともまたまたリベンジ?いずれにしても、山は征服するものだろうか、ほとんど白山しか登ったことはないものの、一度足りとも征服や踏破などと挑戦するような気持ちになったことがない。

 ゆっくりと、ゆっくりと、どこまでも時々の体調に合わせて、ゆっくりと歩く、空を見上げ、足元を見つめ、大気を胸いっぱいに吸い込む、たぶん山という手のひらの上で遊ばせてもらっている、決して無理のない計画の下でこそ、それらがかない、味わえること、しみじみと。

 それにしてもこの後ろ姿、かっこいい!













2020年10月25日

岩の愛、人の愛



  

 『心身の神癒』の第一話、ほぼ冒頭に「愛は鉱物における親和力である」という一節があり、月明かりの白山の頂で過ごしながら、山というより、まるで取り憑かれるように、圧倒されるばかりの岩ばかり見て、この言葉を思い浮かべた。白山は活動度が低いとは言え、1659年の噴火を最後にした活火山の一つに数えられている。御前峰山頂に浮かび上がる岩にふれると、冷たいはずのその肌に温もりが感じられるような、不思議な気分にさえなる。硬い鉱物がどのように形成されたものやら、想像すら届かないけれど、風雨に晒され、雪に埋もれながら長い年月を生きている、と言っていいのかもしれない、鉱物もまた愛の一つの現れであるなら。

 愛とは、などと言葉を並べたところでどうにもならない、鉱物にある親和力が人にもあるのだと思いがおよび、どうやら愛は生きるものなんだろうと、己れの出来不出来はともかく確信のようにして感じとることができるのは、やはり白山の岩と一晩過ごしたからだろうか。

 明け方までまだしばらく時間があり、疲れて、仰向けで横になるのにちょうどいい岩に出会い、ゴロンとするや、一気に眠りに落ちてしまった。数分にも満たない時間だったろうに、ブルっと震えて目が覚めゾクゾクと寒気が治らない。眠るんじゃない、と顔をひっぱたくシーンを映画か何かで観た、あれはこれのことだったか。凍傷の危険と隣り合わせの極寒の高山などとは比較のしようもないが、未明の白山にひとり佇んでいることを十分に感じ、ちょっぴり心細くなった。その岩の横で、熱を生み出そうと、全身を上下に左右に思いっきり振動させた。十分ほどか、ようやく落ち着き、もう一度岩を見つめ直す。

 噴火で吹っ飛んできたんだろうか、大小様々な岩があちこちにどでんと居座っている。白山は愛でできている、そう思うと、このまま眠り込んでもいいような気もして、でも、ご来光を待つのはやめて帰ろうかなと思い出した。岩に愛、人にも愛がある、下山の道へと歩き出した。「人にあって愛は愛情となって表れる。」










 



2020年10月23日

名月と白山




 仲秋の名月の宵、数年ぶりに白山の頂を歩いた。ところどころ風が冷たく吹き荒れ、これがこの人生で最後かもしれないと挫けそうになり、岩陰に入ると正反対に無風状態で、居眠りしそうなほど安穏として、ふるさとの霊峰は実に気まま、佇む人は吾一人ながらその気ままな大自然に抱かれる気分を分かち合う相手は、意外にも間近に感じられた街灯り、どこの町だか、食卓を囲む家族団欒、夜に働く人もいて、愛する人を喪い泣き崩れているシーンまで浮かんできた。霊峰白山は、こうしてすべての人の営みをいつも見守っているのだろう、そうとしか思えなかった。

 ピンホールカメラで撮ってみたい風景の中で、これでは露光時間は一時間でも足りないだろうと、セットした三脚の傍で気功でもしようと試みたものの、どうにも気分が乗らない。わざわざ練功して大自然の気と交流するおかしさというのか、すでにその深淵なる気に抱かれているではないか、なんとなれば溶け込んでしまえるほどに。

 気功とは、日常でこそどうやら必要なようだ。雑然とした暮らしの中でこの白山という聖域を想い、その気とふれあう、そのために今このひとときの味わいに浸りきる。なんとありがたいことか、頂で感じるのと同様に、常に人は見守られている。

 ずっとこのまま山に居たい、ここで生きていたい、もしもそうなったとしたら、どんな気分だろう。仙人になりたいとは思わないが、世渡りなどこれっぽっちも望んでいない。だからだろう、向上心というものをほとんど持ち合わせていない、なんとなく、生きてきた。そう思うと泣けてくる。白山、あなたのせいだ。

 それにしても日常からだととても遠くにある白山が、今これを書きながら不思議なくらいに近くに感じられるのは、やはり見守られているからだろう。気功は、その気になることを助けてくれる。

 人間はなぜほかの生き物とちがうんだろう。悩み、苦しみ、泣いて、悲しみ、夢とか希望が必要で、働き稼いで、利害損得を計算し、奪い合い、虐げ、あげく積極的平和というものまで掲げてしまう人間の一人であること、山にいると、ことに名月の頂きは、自分をも見つめる本当に特別な時間になる。














2020年10月22日

白山にて、星々とともに


 
 朝まだきの公園などで気功しながら過ごすようになり、晴れた日は星々を仰ぎ見る楽しみが生まれた。これはまさしく、実に楽しく、愉快でさえある。高齢者の仲間入りをする世代になるまで知っていたのは北斗七星やオリオン座ぐらいで、最近これにようやくシリウスが加わり、その名前を口にして手を合わせてみたり、向き合って練功したり、まるで懐かしい旧知の友に出会ったような小さな感動を味わっている。星々と語らう、と言ってももちろん一方的な会話でそれも実際に声を発するわけではないから、語らうというのは当たらないかもしれないけれど、二時間あまりも星空の下で過ごす気分はやはり語らうが近い。

 先日、千葉の友と二人で白山は南竜ケ馬場に泊まった折、ボランティアとして山小屋を閉じる作業に当たっていた男性がご親切にも星の撮り方を教えてくれ、改めてカメラを据え、早速そのように撮ってみた。ISO感度は800、絞りf3,5、露光時間は10秒だったか15秒。確かに天の川まで綺麗に写り、若干の補正を加えて上の写真ができあがった。

 下の写真は、その前に自己流で撮っていた一枚。ISO感度は400、絞りf8、露光時間は10分ほど。カメラや三脚以外の便利な小道具は持たないので、レリーズボタンを人差し指で押さえたまま動かずにじっと星空を眺めていた。人の目に止まっている天体は、実はこうして北極星の周りをぐるぐると廻って動いていることを、誰もが何かで見聞きして知っているわけで、それでもとても不思議な気分になるのはなぜだろう。星々のこと、ましてや宇宙のこと、それに地球のことにしても、まだまだ人間の力では到底及ばない世界が広大に、それこそ無限に広がっている。不思議で当たり前、なぜ毎夜変わらずに星は運行しているのか、それも何億光年も前に発せられた光を目の当たりにしているなんて、いくら想像してみても、不思議でたまらない。




 星々とともに過ごすひとときを持つようになり、大きく変わったことが一つある。心の中の見えない変化だから実証のしようがない分、この内側で感じ取れる領域の広がりは日中にまで残り、やがては再び訪れる夜にも、つまりは連日連夜の変化ということになり、もはや変化というより、これが人間という存在なのかもしれないと、星々が教えてくれたような気にもなる。

 何をやっても中途半端で、何を描いても決して最後まで到達しない、このまま実にいい加減な人間で終わりそうだと、自分でも分かるようになった。それでも気功ぐらいは死ぬまで続けよう。そうして星々を仰ぎ見ることは、星々に見守られていることでもあるのか、内側で広がるものの一つは、どうやら安心、というものかもしれない。それもかなりスケール感のある安心で、雑然と繰り返しているばかりの日常の営みをも悠然と、優しく包み込んでくれる。

 『風の旅人』を編まれた佐伯剛さんがシェアしていた日野啓三『書くことの秘儀』の一文を改めて読み、この広がりもまた、真似事でいいから、その一つであってほしいものだと感じ入る。

 「聖なるものは天国でも神でもなく、生命の根源の力に根ざしながら、いつでもどこでも、相対的でしかないこの現実を超える世界を思考し幻想し志向しようとする、われわれ自身の魂の運動そのものなのだから。」