2015年3月8日

日本で最も美しい村







 放射能被害が明るみに出るにつれ取り上げられるようになった飯舘村を調べているうち、「日本で最も美しい村」が全国各地にあることを知った。飯舘村もその連合の一員として、経済発展ばかりを掲げる国の方針などに頼らず独自の道をこつこつと歩んでいたにちがいない。その頃に「までい」という言葉もよく見聞きしたものだ。ネット上にこんな記事を見つけた。

 私たちは、親や年寄りから「食い物はまでいに(大切に)食えよ」「子供はまでいに(丁寧に)育てろよ」「仕事はまでいに(しっかりした・丁寧に)しろよ」と教えられてきました。手間隙を惜しまず、丁寧に、心をこめて、時間をかけて、じっくりと、そんな心が「までい」にはこめられているのです。

 飯舘村に入るとまでいが生きていた四年前の雰囲気が、今もそのまま残っているような気がした。見える風景は、住んでいる人がほとんどいないのだから、当然だが殺伐としていた。南相馬から県道12号線で八木沢峠を越えて入ると、道沿いの家にも畑にも人影はなく、降りてうろうろ徘徊することが憚られるほどに静かだった。田んぼはつんつん草で覆われていた。これが生えてくると厄介なんだと、すべて抜き取る作業に精を出したのは二年前に手伝った輪島の鴻の里でだった。飯館の田んぼは人にとって厄介なものの安住の地になっている。だが土地とそこに住んだ人の気とは凄まじいものだ。おそらく絶えることがないのではないか。野良仕事の声や笑顔が想像できた。

 日本で最も美しい村連合のサイトを探しても、飯舘村の名前はもう見当たらなかった。放射能汚染がこの村のすべてを奪い去った。あちこちで見かける大規模な除染作業でその場の線量はいくらかでも低下するだろうが、のびやかに広がる山並みを望みながら感じたのは、人間の愚かさばかりだった。村を愛した人たちはいまどこでどうしているんだろう。仮設住宅、避難という言葉は、他県の者には現実味が感じられなかったけれど、村に一歩踏み入り一軒の空き家を前に佇んでいると、その意味が言葉もなく急に押し寄せ、胸を圧した。

 日本で最も美しい村の人たちは、今も各地で静かな営みを続けているだろうか。営みは、当たり前に与えられるものではなかったことを、飯館村が教えている。までいに暮らせよ、と。










2015年3月7日

日常




 FKキッズ交流キャンプに何度も参加しているたとえばユウタはまだ一年生で、初めて出合ったのが三年前の冬、この間に成長する姿を間近で見守ることができた。この年頃の変化はとても著しい。どこか赤ん坊の雰囲気さえ漂っていた子が今では芯のある言葉を発したりしてハッとさせてくれる。非日常のキャンプと、この頃は気軽にお邪魔するようになった福島市の日常の様子とで、ますます身近な間柄になっている。ユウタの未来にいくらかでも参加していることに気づくと、福島原発事故がもたらしただろう数ある希有な出合いのひとつを経験している不思議と、その陰に秘かに隠れている責任のようなものを感じる。親ではないおとなの話に、子どもたちは真剣に耳を傾けていることを決して忘れてはならない。

 今でもときどき思い出すのは、あの冬のキャンプが定員を大幅に上回り、なんと四十人を越える参加者を招いたことだ。その最後の最後がユウタとおかあさんのヤスコさんだった。「ぜったいに参加したいんです。ズルしてもいいから入れてください」という電話での申し込みだった。面白い人だと思った。人の気持ちは、人へと乗り移るものなんだろう。ほかにも数ある保養プログラムの中でFKを選んでくれるという意味を考えることはなかったけれど、あのヤスコさんの子を思う親心が今の関係を創り出すきっかけになったことだけは確かだ。

 朝が苦手なユウタと、ユウタを追い立てるように行動を促すヤスコさんとのやりとりは、まるでホームドラマのようにしてどうやら毎日繰り返されている。放射能問題はこの国の非常事態ではあるけれど、日常は、ここでもほかのどの町の日常とも変わらず常に営まれている。大事な日常のために、キャンプなどの非日常があるのかもしれない。放射能問題にはできるかぎり注視しながら、大事なものは日常でこそ育む。人の営みというものは、いつも変わることがない。

 巨大な津波と原発事故が、愛すべき数々の日常を奪い、今も奪い続けている。福島の子どもたちと共に過ごしながら、だからそれを忘れたことがない。陰に隠れている責任とは、忘れないでいることかもしれない。どんな事態に陥ろうが、常に前を向いて日常を営みながら。











 

2015年3月6日

FKキッズ




 福島の子どもたちが放射能問題から少しでも離れることができるようにと、今も全国各地で保養プログラムなるものが開かれ、その気持ちのある保護者のみなさんがかわいい我が子を手元から離し参加させている。そんなプログラムのひとつ、「ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ」にかかわるようになり、これで有に百人を越える子どもたちと出会っている。ふくしまのF、かなざわのKが交流するから、FKキッズと呼んで、今ではまるで親戚のおじさんのような気持ちでいる。何回も参加している子にはとくに、キャンプ以外でも会いたいと思う。福島市で開かれた保養プログラムの相談会に出たついでに、福島の今を見ておくつもりで県内を駆け回った。いわきに入ったのが折しも下校時間に近いころで、もしかすると合えるかもしれないと儚い思いを抱いて、十人ものFKキッズが通う中学校へ向った。全員女の子だ。FKが初めて開いた夏のキャンプに四人、そのあとの冬にいきなり十人がやってきた。彼女たちとの出会いがなければ、FKはこうまで続かなかったかもしれない。それがおとなでもこどもでも、出会いがもたらす妙というものを感じないではいられない。

 校門から大勢の中学生があふれ出てきた。黄色い旗を持ち、さようなら、さようならとひとりひとりに声を掛けているおとなはおそらく先生だろうと、生徒の写真を撮る承諾を得るため近寄った。「教頭の許可を得てください。この頃はぶっそうな世の中ですから」との返事に、そうだよな、面倒な世の中になったものだと、時間を割いてみたが甲斐なく断られ立ち戻った。その数分間にお目当てのFKキッズが流れ出たものか、そろそろあきらめようかというころになって、ひとり、懐かしい顔が現れた。「やっ!」と近寄る。びっくりするのは当然だが、その後の会話がぎこちなく、続かない。親しい気持ちはあるけれど、思い出深い石川でのキャンプならまだしも、日常にいきなりでは馴染めないのもまた当然か。途切れがちに言葉を交わし、せめてものことにと、中学生になった姿を撮らせてもらった。

 ナナは落ち着いた子だ。真っすぐにカメラを見つめ返している。まだ撮り慣れていないローライフレックスを確認しながらゆっくりと操作し、無言で対話するようにピントグラスを覗いた。ほんの短い時間だったが、過ぎてしまうのがもったいないほど豊かな気持ちになった。日本中に大勢の子どもたちがいても、ほとんど出会うことなくそれぞれの人生は終わる。原発事故が起きてしまったがために出会った仲だと思うと、この一枚の写真がいつかおかあさんになった頃にでも改めて見直すときのために、丁寧にプリントして残しておきたい。老いながらも写真家を志す飽くなき者がキャンプの主催者でもあるのだ。子どもたちの素の姿を撮りたいと、ようやく思いはじめている。












2015年1月31日

魂がふるえるとき




 録画しておいたNHK「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」で石牟礼道子さんの回を見た。石牟礼さんは、魂という言葉を何度か、しかもさりげなく、まるでこぼれ落ちる雫のようにとても自然にささやかれた。魂の存在を実感できないでいたこの凡夫は、その飾らない表現に戸惑いながらも、見えない存在をこの世のものとして考えたいという気持ちになった。石牟礼さんの最近のインタビューが『風の旅人』復刊第4号にも掲載されていて、その最後にはこんな言葉が並んでいる。

 「『石牟礼さんは、“魂” とよくおっしゃるけど、眼に見えないものを信じるのか』って言われたことがありまして、びっくりしましてね。魂があるから、ご先祖を感じることができるでしょ。みんなご先祖を持っているわけですね。それは人間だけでなくて、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる。それは、美に憧れるのと同じだと思います」。

 目先のことばかりに気を奪われて暮らしていることに、実はもうとても疲れている。写真家を志しながら撮れない日々が続いているのも、それと無関係ではないだろう。インドの人生哲学になぞらえればそろそろ林住期や遊行期を意識し出していい頃合いかもしれない。この数年福島の子どもたちを招いて開く保養キャンプに熱中している。子育てが遠の昔に終わっているのだから、人生の終盤ぐらい自分ではない他者のために生きてみるのもよさそうだ、ぐらいの軽い気持ちから始めたことだった。それが今ではどうだ。何十人もの仲間と出会い、おそらく二百人を越える子どもたちと身近な自然に抱かれ、負けずに飛び跳ねている。この変わり様に、自分が一番驚いている。

 子どもは未来、などという言葉は垢にまみれて使い古されたものにしか感じられなかったが、実際子どもたちと出会い体丸ごとでふれあう仲になると、彼らが未来そのものであることがまるで手に取るように実感できる。キャンプ期間中などは、あらゆる瞬間に未来を感じている。未来が笑って泣いて、目の前で呼吸している。ボランティアなどにはあまり関心がなかったせいか、有志の力で成り立つキャンプは多分その類いに含まれるものだろうが、今もほとんどその意識がない。これはボランティアでも助け合い運動でもない。出会ってしまった未来という仲間と、果てしない夢を追う、個人的にはほとんど写真を撮るという行為にも似た、いわば表現活動だ。熱中して、もう止められない、生きるという範疇に入る、とても自然な行為だ。時に心身がふるえるような瞬間に出会うけれど、もしかすると、震えているものの正体を魂と言うのではないか。石牟礼さんがさらりと言ってのける魂の響きを、少し感じられるようになっているかもしれない。

 キャンプの仲間には、その道で豊かな経験を持つ人も多い。自然体験活動というジャンルがあるくらいだ。だが経験は時に邪魔になる。このキャンプには表面的な課題がとても多い。多いという程度では済まされない。むしろ課題で出来ていると言っていいだろう。素人が代表をしている会の活動をお決まりな枠に、あるいは先進的なものを当てはめ調えようとすると、関係がぎくしゃくしてしまうことを何度か経験した。キャンプを滞りなく無事に成功させることを目標にするのは大事なことだが、それ以上に、課題を克服することじたいを、そのプロセスの中から生まれる交流こそを、もっとも大事なものとして抱えていたいと考えるようになった。ここからは想像に過ぎないけれど、そうして抱えているものの中に、魂が伝えようとしている生命の息吹きがあるような気がしてならない。眼の前の見えているものだけで判断してはならないのだ。傍で飛び跳ねている存在こそが未来なら、視線は出来るかぎり遠くへと注ぐ必要があるだろう。

 石牟礼さんは、しかも先祖の話をされている。ひとりひとりがこの世に生まれ落ちるために、いったい何人の先祖が存在したものだろうか。生まれてきたことに意味があるとかないとかの話ではない。すでに何千年という壮大な時間をかけ、何世代も受け継いできた人間と、そして生き物たちの長い長い歩みのほんの一部が今、眼の前に現れているに過ぎないことを、魂という存在を通して考えてみようではないかと、先達はそう示しているのだと思う。やがてはだれもが先祖になる。未来の礎として、魂を手渡すようにして。










2014年11月24日

眠る人




 ゆいちゃんは、明日25歳の誕生日を迎える。その二日前だというのにプレゼントも持たずにのこのこ出かけ半日以上もお邪魔した。相変わらず気の利かないこの友を、ゆいちゃんはどう感じているだろう。福島の子どもたちとのキャンプを開くようになって以来の、数年ぶりの再会だった。とても美しい娘に成長していた。と言うより、美しく成長しているのをこの目と心で確かに感じられるようになっていた。これまでにも何度か会う度に撮って撮られるひとときを持ったけれど、なぜ撮るのか、撮ってどうするのかという己への疑念というような思いに苛まれていた気がする。撮るということの中に、どこか打算があるような気がしてならなかった。だからだろう、美しい姿にたじろぐばかりで心を全開することもできずにひたすらシャッターを押していたのだろう。

 美しい。ため息まじりにつぶやくと、鎮静剤で眠っていたゆいちゃんが一瞬目を開き天空を見つめた、ような気がした。答えてくれたのだ、と思った。おそらく見えないゆいちゃんにしか見えないものがあるのだろう。瞼を閉じていても見えている世界が存在しているにちがいない。子どもだとばかり思っていたのに、まるで神々しいばかりの女神のように感じられた。

 写真を撮るということは見える対象にレンズを向けるという単純な行為にはちがいないが、その時写真家が向き合おうとしているのは、対象が奥深い懐に湛えている澄んだ湖のような、鏡とも言える存在なのかも知れないと、先日井津建郎さんはじめ数人の写真家が集う場に参加して以来感じている。あえて撮る理由を上げるなら、その鏡に映り見せられる自分という存在を恥じらい、その場から消し去ってしまうことなのだ。少なくともこの凡夫にとってはそうなのだと確かに思える。

 ゆいちゃんはリー脳症という難病を患っている。2歳で発症し、余命幾ばくもないと診断されたそうだ。初めて会ったのは、15年ほども前になる。自宅を会場にホームコンサートが開かれ、演奏した和歌山の友人福井幹を介して知り合うことになった。友だちだと感じた第一印象は今でもはっきりと覚えている。障害や難病と共にある人に出会うといつも尻込みするのが常だったが、その時ばかりは不思議だが懐かしい再会という気持ちにさえなった。だがそれは表面ばかりを見ていたのに過ぎなかったことが、今ならよくわかる。何年もの間ゆいちゃんの姿を見ているようで、実は見ないようにしてきたようだ。撮ることはあっても、撮れないことを知っていたような気もする。

 ならばこれからは撮れるのか、本当にはわからない。ただこれまでになく心を開いて向き合っているのがわかった。おかあさんの真由美さんと話しながら、撮りながら抱えていた打算のような、もやもやとした薄汚れた衣を脱ぎ捨てているのを感じた。自分から発信するものなど何ひとつないこと、あるいはその場を共有するだけで互いに感じられる生の歓び、言葉にするとあまりに軽く陳腐になるばかりだが、撮りながら眠る人と共に見えないものに近づいているような気がしてならなかった。

















2014年11月16日



 この世でもっとも美しい瞳を持った友がいる。澄んだ湖の水底まで見透かせるような透明度を持っている。覗き込むと、濁った己の瞳が映り込んでハッとさせられる。年に一二度会いに行く程度で果たしてゆいちゃんは友と思ってくれているだろうか。これまで何度か撮る機会があり、その都度撮り続けたいと心の隅で感じていた、ゆいちゃんの瞳。ただ己が浄化されたいだけなのか、撮りたい気持ちの裏にあるものを掴めないまま、出会って十年以上も過ぎてしまった。けれど今、ようやく気づいた。友だから撮りたいのだ。

 先日井津建郎さんはじめ数人の写真家が集う場に参加する栄に浴し、写真家の何たるかを自分なりに感じることができた。写真を撮り写真で表現するとはどういうことだろうか。写真とは見える対象に向き合いながら見えない世界にまで手を伸ばそうとする、いわば旅そのものだ。我が身に置き換え考えてみた。何も遠くへと足を運ぶばかりが旅ではないのだと、今ならよくわかる。友の澄んだ魅惑の瞳に旅をするのだ。ゆいちゃんに会いに行こう。会いたい者が自ら動かなければ会えないゆいちゃんに。










2014年9月18日

写真が恐い




 長年撮り続けてきて思うことがある。一瞬が定着する写真の恐さというのか、写っている人のさりげない表情が映し出す心情まで感じられることだ。先日ご縁をいただいて撮った結婚式の、集う人たちにあふれている微笑ましい表情の数々はさすがに晴れのひとときを感じさせた。幸せを祝福する人の姿はまぶしい。母が娘に向けるまなざしからはぬくもりや優しさという心模様が表れている。おそらく意識はされていないのだろうが、撮っているとそれぞれの瞬間が表しているなにがしかのものを感じて、いい気持ちにもなり、あるいはその逆に恐くなることもある。福島の子どもたちとのキャンプ中に撮られた自分のさりげない瞬間の写真を見て、その無表情ぶりに愕然とすることがある。心が動いていない、感動する瞬間がないのだろうか。一枚の写真に己の今を突きつけられる。恐い。日常の時間は停まることがなく、見逃していることがいったいどれほどあることか。あれやこれやと気づかないまま、だから苛まれることもなく生きていられるのかもしれない。










2014年9月17日

岩よ





 中秋の名月の夜になると、いつも過ごしたいと思う場所がある。白山の峰だ。ことに翠ケ池を過ぎた辺りが気に入っている。最高峰の御前峰、噴火の凄まじさを思わせる剣ケ峰、柔かな懐を感じる大汝峰の三峰に囲まれて、おかしな話だがまるで眠るようにして彷徨い歩いた。いつにない夜更かしも手伝ってか次第に意識が遠のいて行く。金沢の町からもそう遠くない場所に、霊山がある。これも縁と言うのか、ふるさとに白山がある。

 冴え渡る十五夜の光が地上に降り注ぐ。ヘッドライトを消す。闇に漂うものがある。冷気か、それとも何ものかの気配か。闇夜と言うには月があまりに明るいけれど、だから一層陰が深くなる。見えないものさえ浮かび上がってくる気がした。どうやら怖じ気づいている。深夜の峰を望みながら、なんとひ弱な現代人か。

 岩岩が目に飛び込んできた。やや歩道を外れて立ちはだかるように転がっている様は何度も歩いて見慣れているはずだが、いつもの様子とまったくちがった。明らかに生きて存在している、としか思えなかった。噴火の際に飛び出し転がって来たのか、マグマが冷えて固まったのか、あるいは地上にせり出して来たのか、それらの由来を知らずとも、そこにあるのだからあるとしか感じていなかったものが、実は確かな存在感を放っていた。

 白山は一億年前は湖底にあったという。十万年前には標高三千メートルを越える古白山火山があり、三、四万年前に今の山頂部で白山火山が活動しはじめている。翠ヶ池は、1042年(長久3年)の噴火でできたそうだ(白山観光協会)。

 とにかく岩は生きながらえている。見える形あるものとして、あるいは内に凝縮する力に反発するようにして見えない気を解き放ってもいた。漂うのものの正体かもしれない。

 命とはいったい何者なのか。白山を歩くと、決まって命のことを考えている。生きていることが不思議でしようがない。その意味もわからず、やがて死が訪れることもまた不思議だ。今ここに存在しているのかさえ疑わしくなる。こうしてネット上に書き込んでいても、結局は何も残らないのだと思える。

 さえずりというほどでもなく小鳥が声をあげた。野生には昼も夜も、悩みもないのか。岩よ。泰然として存在するものよ。せめて何度でもあなたに会いに行こう。
















2014年4月27日

息子たちへの贈り物




 息子が野球をしていた中高時代のチームメイトらの関係は今もずっとつづいていて、年を追うごとに味わい深いものになっているようだ。「ますのさんにぜひ撮ってもらいたいんです」と、その一人が結婚の日の撮影を頼み込んできた。あの頃にも撮ってやった試合中の写真を気に入り、いつか結婚するならその時もまた、そう思い続けていたなどと言われれば断りようがない。「今どきの若い感覚を求められても撮れないからな」と前置きして引き受けた。

 それにしても、息子たちにとってのその友人関係は生涯の宝物になるのだろう。いつも兄弟以上に力を合わせている。このおやじの散々な人間関係に比べると、まるでこの世の奇跡だとさえ思う。人はひとりでは決して生きて行けない。支え合う友人を必要とする場面が数多くあるだろう。そして、だからこそひとりでも生きて行こうとする力も生まれるのだ、と思う。

 三年目を迎えた福島の子どもたちとのFKキャンプにテーマソングまで出来た。「ひとりじゃできないことも、みんなといっしょならできる」というような一節が度々出てくる。いつも子どもたちと一緒に楽しんで大声で歌っている。それはそれで大いに結構なのだが、歌いながら実は気になっていることがある。赤信号みんなで渡ればこわくない、などと揶揄するわけではない。人は所詮一人で生きるのだ。そのための支え合いなのだ。キャンプの子どもたちが成長してこのジジイとまだ向き合って話す機会が残されていたなら、そう断言して別れるつもりだ。放射能の被害を乗り越えて生きる力は、それぞれが自らの意思で獲得しなければならない。仲良しこよしもほどほどに、と時に息子を見て感じることがある。楽しく遊んで飲み明かし、それで己の足下を見つめる時間をないがしろにしては行けない、などというメッセージをアルバムに添えておきたいくらいだ。

 そのアルバムの手作りに当てる時間も気力も、もはや持ち合わせてはいない。フォトブックなどというネットを介したサービスにまるで一般書籍然とした商品を見つけ、少々高価だったが利用した。「ますのさん、まだ四人いますからね。ぼくたちも撮ってくださいよ」。あの頃からおどけた奴だったが、独り身を謳歌しているくせに、人なつっこく言ってきた。ああ、生きていたならな。息子たちへの最後の贈り物のつもりで。










2014年3月10日

雪の朝に思うこと



 
 三月、そろそろ春分を迎えるというのに、白を装ったとなり近所を散歩することが
できた。雪の風景は個人的には好ましいもののひとつだ。冷たい気に包まれていると
生まれる出る前の物静かな息吹きを感じる。今年は珍しくどこか新しい気持ちになっ
ている。意欲というほどのものなどもはや持ち合わせてはいないけれど、長年携わっ
てきた写真との、これまでなかった関係を持てるような気がしている。慣れ親しんだ
デジタルはめっきりその機会が減ったカメラマン稼業の道具として、あるいは日記の
ような日々のメモ代わりとして使いつづけるつもりだが、時間をかけて向き合いたい
ものには相応しくない。流れて忘れ去るものなどには興味が薄れるばかりの、この姑
息な現代の日常の中にも留めておきたい相手がいる。そして確かに出会っている。元
の鞘に戻ろう。そうでしか遺せない存在がある。