放射能被害が明るみに出るにつれ取り上げられるようになった飯舘村を調べているうち、「日本で最も美しい村」が全国各地にあることを知った。飯舘村もその連合の一員として、経済発展ばかりを掲げる国の方針などに頼らず独自の道をこつこつと歩んでいたにちがいない。その頃に「までい」という言葉もよく見聞きしたものだ。ネット上にこんな記事を見つけた。
私たちは、親や年寄りから「食い物はまでいに(大切に)食えよ」「子供はまでいに(丁寧に)育てろよ」「仕事はまでいに(しっかりした・丁寧に)しろよ」と教えられてきました。手間隙を惜しまず、丁寧に、心をこめて、時間をかけて、じっくりと、そんな心が「までい」にはこめられているのです。
飯舘村に入るとまでいが生きていた四年前の雰囲気が、今もそのまま残っているような気がした。見える風景は、住んでいる人がほとんどいないのだから、当然だが殺伐としていた。南相馬から県道12号線で八木沢峠を越えて入ると、道沿いの家にも畑にも人影はなく、降りてうろうろ徘徊することが憚られるほどに静かだった。田んぼはつんつん草で覆われていた。これが生えてくると厄介なんだと、すべて抜き取る作業に精を出したのは二年前に手伝った輪島の鴻の里でだった。飯館の田んぼは人にとって厄介なものの安住の地になっている。だが土地とそこに住んだ人の気とは凄まじいものだ。おそらく絶えることがないのではないか。野良仕事の声や笑顔が想像できた。
日本で最も美しい村連合のサイトを探しても、飯舘村の名前はもう見当たらなかった。放射能汚染がこの村のすべてを奪い去った。あちこちで見かける大規模な除染作業でその場の線量はいくらかでも低下するだろうが、のびやかに広がる山並みを望みながら感じたのは、人間の愚かさばかりだった。村を愛した人たちはいまどこでどうしているんだろう。仮設住宅、避難という言葉は、他県の者には現実味が感じられなかったけれど、村に一歩踏み入り一軒の空き家を前に佇んでいると、その意味が言葉もなく急に押し寄せ、胸を圧した。
日本で最も美しい村の人たちは、今も各地で静かな営みを続けているだろうか。営みは、当たり前に与えられるものではなかったことを、飯館村が教えている。までいに暮らせよ、と。