2026年5月1日

祈り(3)




 無二と言えばこの世に二つと無い唯一の貴重な存在のこと、けれどたとえばそれが人ならだれもかれもすべての人が無二の存在、だからこそ無二の友と言いたくなる関係を授かることはとてつもない奇跡なのかも知れません。何回生まれ変わろうが今生に起こったこの奇跡の意味を、その友の亡き後になってようやく考え出しています。  

 福井幹。宇宙の光につつまれ、その光としてすべての存在を愛した人、だからだれからも愛され慕われ、そんな彼を無二の友とするのはおそらく大勢の人が感じていることかもしれません。だからその一人としてこれからここに、彼との日々を祈りながら書き残しておこうと思います。

 幹には『祈り』と題したCDもあり、清浄な笛の音色を聴いていると二人で過ごした風景がいくつも浮かんできます。  初めて出会ったのは奈良の大倭紫陽花邑でした。やがて四十になろうかという頃だからもう三十年以上も前の昔、アメリカはコロラドに本部を置くエミサリーというコミュニティのメンバーを迎えて開かれたアート・オブ・リビング・セミナーの場でした。  たまたま繁華街の本屋で『自然生活』という小冊子を見かけ、その中ぼとに掲載されていたセミナー開催の告知記事、たしか「森の中での太極拳」などと書かれていたのに誘われての参加で、その頃からすでに始めていた気功があったからこその流れでしたが、結局そんな機会は一度としてなくて、それまで出会ったことのない類の人ばかりの集まりに戸惑うことばかり、よく分からなかった数日間の出来事を振り返ってみると、ひとつひとつの意味がいま初めて、突然に蘇るという勢いで感じられます。 

 あれは二日目、朝食前のひとときだったか、適当な場所を探して練功していると、いつの間に現れたのか長い髪の白装束が話しかけてきました。「スワイショウですね、こういうのもあるんですよ」と言いながら実演、上半身を左右に回して両手をゆったり振るその動作は知っていましたが、今もずっとやり込んでいるのは前後に振る型で、時々に幹との出会いを思い出してながは左右にも振っています。  

 そのあと何を話題にしたのかまったく記憶にないのに、セミナー期間中の始めと中ほどとそして最後の三度、幹とふれあったひとときに熱く動いた心は、その後の吾が行き先を決めたような気がします。そうじゃないなら、今のマスノマサヒロはまったくちがうタイプの人間だったかもしれません。  期間中に何度か耳にした幹の笛を金沢でも聞いてみたいと思い、お気に入りの大乗寺で百人余りが集うコンサートを開いたのはそれから間もなく。ほかにも参加者の文集を何度か作って配ったり、親しくなった仲間の家々を訪ねて歩いたりもしました。仕事でも余暇の遊びでもない、これまでなかった新しい世界が広がり始めていました。  

 これを書きながら今感じているのは、あのセミナーでの体験から祈りが祈りとして始まり、それが今日まで片時も絶えることなく脈々と続いていることです。祈りとは、静かに手を合わせて神を想うことばかりでなく、この一つ一つの深い呼吸にも、ひと言一言のつぶやきにも、ゆったりと踏み出す一歩一歩の歩みにも、生きているすべての瞬間にどこまで心を込めているか、それを祈りとしても一向に構わない。心に込めたそのエネルギーこそが創造主からの贈り物で、それぞれの色合いを添え世界に宇宙にまでもお返しするように広げてみる、個でありながら世界でもある、祈りとはそうして生きる人の姿のこと‥‥‥、あゝ、そうして生きたにちがいない幹が、(マサヒロもおんなじだよ)と贈ってくれた言葉の数々を今こそ真摯に受け留めてみようと思います。  

 『祈り』をはじめ幹が音楽に込めたイノチの響きが、天地に分かれた今だからか、身体にくまなく細胞にまで染み込んでくるようです。祈りのエネルギーはきっと途絶えることがなく、世界がある限りまさに永遠に、人から人へ、人から自然へ、人から神へと捧げるごとに、その強度を増して行く。そんなイメージを抱いて静かに目を瞑るだけで、なんとも穏やかな、溶けるような気に包まれ、この肉の身体もやがて跡形もなく溶けて行くような‥‥‥‥、  

 先日届いたエドガー・ケイシーのリーディング 

 「あなたは神としばしば語らい歩んでいますか?それはあなたの特権なのです。さて、あなたは何としますか?  

Hast thou walked and talked with Him oft?  It is thy privilege. Will ye?」 
(3051-7) 

  祈りが神と語らうことなら、祈ることができる人間のそれもまた神から与えられた特権、人は神の特使としてその代理を務め生きているのかもしれません。溶けてなんの不思議もないような、生もそして死も、とても自然な営み、幹や我が愛する母や、父や婿殿や、先に逝かれた大切な仲間が増えるにつれて、心の中にある見えない境界も壁も、やはり音もなく溶けて行くような。 

 大倭紫陽花邑での最後のひととき、バイクに跨ろうとしたその瞬間にまた幹が現れ、両手を広げて近づいてきました。なんとも馴染めないあのハグだな、と思いながらおずおずと抱き合うと、体から力が抜けて行くような感覚でした。今思うと、この男は強がっていただけで、実はとても弱々しい存在だったことを感じていたのかもしれません。 

 あれからずっと、そして天地に別れた今もなお、幹はマサヒロの無二の友。「ツヨキ、どうぞ懲りずによろしくお願いします!」








2026年4月11日

祈り(2)

 


 祈りについて、何年も前の昔にも考えた時期があるのに、その中身をまったく思い出せないということは、日々の暮らしの中に未だ祈りそのものが欠けているということかもしれません。もちろん正信偈を唱える仏壇や、近頃はジョギングの途中で立ち寄る身近なお宮さんで手を合わせ、毎度毎度「ありがとうございます」と感謝の言葉を添えてはいますが、ガンジスの大河のほとりで祈る人々の様子を思い浮かべるとき、なにやら大きなちがいがあるような気がしてしょうがありません。

 いったい何がどうちがうのか。たとえば祈りの対象とか、その対象との距離感。我が養生生活の基本に据えたエドガー・ケイシー療法で、そのケイシーが遺したリーディングの中に、言葉は正確ではありませんが「あなたが治すのではない、神が治すのだ」とか、「祈りとは神への問いかけ、瞑想は神から届くその返答」というような話があり、折にふれて神という言葉が浮かんできますが、はたしてその神という存在を確かなものとして感じているのか、甚だ怪しいもんです。

 ちがいは、祈りの深さ、あるいは身近さ、感謝の度合いか、などとあげているうちにすぐに感じたのは、そんなふうにぐだぐだと考えている自分自身へのこだわりが頑としてあること。それがどうも神と隔たる壁になっているような気がします。家にあった浄土真宗でも、南無阿弥陀仏はあなたが唱えるのではない、阿弥陀如来からいただいた心で唱える、という筋の法話を何度も聴いていますし。


 神との一体感の欠如、まずは己れのその状況を認めることから始まるようです。創造主と、神に似せて創られたという人間のその一人として、両者の関係に必要と思われる(一つ)という感覚が不確なのでは、けっして完全に委ねてはいない、どこまでも強固なこの自我、衰えはじめている肉体だからこそ、その内に棲んでいる魂の存在をいくらかでも意識するようになってはいますが、精神を含めて三つの体のまとまりや連携プレーがまだまだ成立していないわけで、ということは祈りもまた、ケイシーが言った愛とは練習で培うというのと同様、日々に重ねながら深めて行くものなんでしょうか。


 気功や、この頃熱心に続けている瞑想のひととき、それはまだまだ真似事に過ぎない領域ですが、いくらかでも深まった気分に包まれるのは、おそらく肉体という枠組みに緩みが生まれ、窮屈な思いをしていた魂が広がって行くような感覚でもあり、そのとき、ケイシーで学んだ聖書の一節や(祝福の水路)となるアファメーションを静かに、内にもささやくように唱えるようになりました。今朝は、それが、ガンジスの人々の祈りにも似ているような気がして、するとますます溶けていくような心地良さで、祈りとはもしかすると、なにもかもが溶けて無くなることかも、などと勝手な想像を楽しんでいます。


 そしてこの辺りを書いている今届いたケイシーセンターからの「珠玉の言葉」がまた符合するから愉快です。



リーディング 3342-1


人に平安と調和をもたらすには、その前に、自分の内に平安と調和がなければなりません。

There must be peace and harmony in self before ye can bring it to others.



 自分から、というより、これを個と世界には本来垣根などない、と理解してみました。世界などと大きく構えなくても、自他の区別を取り払うと、あれこれの悩ましさが薄らいで、やがて取るに足らないものとして消えてしまう、祈りの効用がさっそく出てきたような一日の始まりです。


 祈り、そして信じる心‥‥‥。がん病のお蔭で始めた養生生活に馴染んでくると、もしかすると人はそれぞれ様々な経験を積みながら、最後には祈りと信じる心を得て、もう一つの世界へと入る門の前に立つのでは、などと想像するようにもなりました。もう一つの世界とは、もちろん見えない世界、この世とあの世に架け橋があるなら、それを渡るための必携品の一つとしての、祈り‥‥‥、


 肉体は当然衰えますが、そのどこか片隅に新たに生まれたような何か、静かに優しく揺らめき、包む波のようなこの力感、本当に不思議ですよねえ、人間、そんな不思議を感じさせてくれるこのイノチ‥‥‥


 病はまさに、そのイノチを愛しい身近なものにしてくれました。














2026年3月30日

祈り ⑴

 


 母が逝き、友がまた逝き、この四ヶ月ほどの日々に頭から離れない思いは、この世での別れと、別れる以前にふれあったさまざまなな思い出と、そしてそこからようやく気づけたのは、残った者がどれだけか残っているその時間にできることは、ただただ祈ることではないのかと。古希を過ぎてこれからますます老いが深まる者にとってはもはやそうとしか思えないものの、けれど祈るとはどうすることなのか、それをまず了解していないのがいただけず‥‥‥、


 何度も思い出すのでひっぱり出してきた三十年あまりも前のインドの写真、ガンジスの大河に祈りを捧げる人々の風景にさして深くも考えず、これがインドか、などと出会う風景や人々にひたすら感動しながらレンズを向けていました。それが今頃になってはじめて身近なものとして、まるで祈るその気持ちがわかるとでもいうように‥‥‥、だからたぶん自分でも祈りたいのかもしれません。


 祈るとは、願いではなく(もちろん願ってもかまわないんでしょうが、)言い換えるとすれば、感謝、の一言のように感じています。憧れていた遊行期にはなおさら、もうほとんど感謝しか残されていないのがよくわかります。


 だれに、なにを感謝しているのか、そんな些細なことにはあまりこだわらなくてもいいんです。この世に生まれ落ちて、気がつけば人間だった、数々の出会い、その中に人生を左右するほどの衝撃的なものが二つ三つ、それらすべてが今につながり、そうしてまだまだいろいろあったはずなのに、過ぎ去ってみれば激流のようになんと短い日々だったことでしょうか。それでもこうして、平凡な人生にも感謝だけは残ってくれた、そんなところかもしれません。


 この2月27日の夜に旅立った友の名は、福井幹。音楽家、本人は宇宙で一番の天才ミュージシャンと声も高らかに宣言し、そして実際そのようにしてあっけらかんと生き抜いてしまいました。よほど気に入ってくれたのか、出会ったころに撮ることになった写真をその後もずっとプロフィールとして使ってくれました。撮影したあの日あの時が、お互いに若かった心身が再び呼び覚まされるように、鮮やかによみがえってきます。


 勝山は平泉寺の杜、朝の空気が澄み渡り、突然差し込んだ木漏れ日がなんとも清しいスポットライトとなって、その横笛吹きを浮かび上がらせました。あれはもしかするとこの世に降り立った神の現れだったのではと、三十年後の今になっても覚めない夢を見ているように思い出されます。


 そんな幹は、この迷える友をいつも褒めちぎり励まし続けてくれました。自然の声に耳を傾け、マサヒロにしか見えない瞬間を撮る天才カメラマンとかなんとか、つい最近も、いい加減それを受け入れさい、と遺言のように言葉を届けてくれました。幹といると、とにかく身も心も透明になり、考えるのではなく感じる、感じられることをひたすら楽しむ、それも内なるものとともに‥‥‥、やっぱり幹はどうやら宇宙的な存在だったのかもしれません。


 宇宙的な、と言うなら、まあ、意識できるか否かは別として、どんな存在もこの宇宙の一員であることには違いなく、幹はそれをはっきりと自覚し生きていた、と言えそうです。


 がんというこの病を発症して一年半、幹も自身の病や体調のことばかりか、ご家族とのことなども振り返るようにして聞かせてくれました。肺を病みながら医療を離れてのこの五年ほどの幹の体験談は、まさに創造主に委ねきった宇宙人そのもので、いつしかそのほんの一部でも真似して生きるマサヒロになってみたいと思うようになりました。


 そして宇宙は愛で出来ているのだと、幹が伝えたかったのはその一点だったということを、生きている限り生まれ変わる我が細胞のひとつひとつでしっかりと今受け止めています。イノチは愛から生まれ、愛へと還る、それを見事に実践した幹はまさに道友でした。(そう言えば、なぜいつもイノチというカタカナを使っていたのか聞くのを忘れていました。)


 ありがたいなぁ。この病、おかげちゃんと呼んで和んでいるつもりのがんのおかげで、幹という愛、母という愛をも感じられます。吾もまた宇宙人かぁ。幹、やっと受け入れられたようだよ。ありがとう、宇宙の友。


 さてと、残されたこの日常を愛で満たすには、凡夫は微笑んで祈るしかありません。だから祈りたいんでしょうか。やがて還るその日がもしも今日だとしても、なるべくなら微笑んで。そう言えば、ほとんど表情に出さなかった母も内に秘めた魂は微笑んでいたんでしょうか、その様子が想われて仕方がありません。


 祈り、なんと美しく気高き、人の営みでしょうか。


 何度も何度も繰り返してきた人としてのこの世の生で、今ようやくこんな気持ちになれているのだとしたら、それこそが有り難く、ただひたすらに感謝をこめて‥‥‥、