「わぁ、京都、行きた〜い」と、多恵ちゃんがいの一番に返事を返してくれました。一月末、京都シネマという小さな映画館で開かれた上映会でのぼくの出品作を観たいと、声をあげてくれたわけです。作品には『家族の時間』というタイトルをつけました。去年の夏、夫を喪った娘は母ひとり子ひとりになってしまい哀しみに暮れる毎日を送っていましたが、その様子を傍に寄り添う父や祖父としてというより、一写真家のつもりで撮り続けたものでした。いつか思春期を迎え悩み多い日々を過ごすかもしれない孫娘が、それに立ち向かって行くための支えとなるような写真として、今ある幼い素の姿を記録しておきたいという思いがありました。そしてそれらを上映する機会に恵まれ、多恵ちゃんに歌を添えてほしいと願い出ました。
上映と言っても、映画ではなく動かない白黒の重い雰囲気の写真です。写真を始めて三十年も経つというのに、今頃になって自分にとっての本当の写真を撮りたいと思うようになりました。試作を観た多恵ちゃんは、治療の後遺症から満足に動かせなくなった指でギターを弾いたりしながら、どんな音楽を添えようかといろいろ考えてくれましたが、内容が内容だけに明確なイメージがわかなかったようです。最後には、わたしを選んでくれたんだから今のわたしのまんまでその場にいようと、決心されたようです。それは、こんな形になって表されました。
『家族の時間』は、病院のICUの風景からはじまり、婿が眠る棺を囲んだ娘たちなど、生々しいシーンがつづきます。多恵ちゃんは、おもむろに鈴を取り出し、ひとふり、ふたふりと奏でました。定員が六十人の館内は立ち見が出るほどでしたが、だれもが息をつめてひっそりと静まり返っていました。今思い出すと、まるで神に仕える巫女のような多恵ちゃんでした。鈴の音だけが、波打つように人から人へ、壁を這うように広がりこだましました。この作品にはこれしかないと思えるスタートでした。
しばらく沈黙がつづいたあと、多恵ちゃんは歌い出しました。それは歌というより、歌い手の存在からわきあがる音の静かな波のようでした。数分おきにフェードインとフェードアウトを繰り返しながら変化していく写真に合わせ、スクリーンの登場人物に、会場の誰もに、語りかけてくれたのです。
タンタタタン、タタタ、タ〜ン、タンタタタン、タタタタ・・・
おかあさん・・・おかあさん・・・、タンタタタン、タタタタン、
沈黙ほど饒舌なものはないと、静かな山を歩きながらときどき感じることがありますが、そのときの多恵ちゃんの、言葉少なな歌、というより、声、というより、心そのものという音楽は、おそらく聞いているすべての人の中に饒舌な波となって届けられたのではと思います。
タンタタタン、タタタ、タ〜ン、
おかあさん・・・おかあさん、ほら、こっちだよ、おかあさん・・・
上映がはじまったとたん、じつはプライベートな娘たちの姿を公開してしまったことを悔やんでいましたが、多恵ちゃんのささやくように、語りかけるように歌う、おかあさんの響きが、この場を知る由もない娘にも届いているような気がしました。癒しという言葉は好みではありませんが、多恵ちゃんはその存在をかけて世界を癒していたのではと、いまになって感じています。決して大げさでなく。
なぜ、重い病にある多恵ちゃんに、京都まで来てほしいと願い出てしまったのか自分でもよくわかりませんが、多恵ちゃんしかいないと思ったのはたしかでした。行きたい、と声をあげてくれたのを幸いに、それじゃおいでよ、と言葉はとても軽いものでしたが、気持ちは割と重く、自分で言うのもなんですが深いものでした。写真家を目指すぼくの写真と、新しい音楽に出合いはじめた多恵ちゃんの、この世での最初で最後のコラボレーションにしようとまで話し合いました。
それはなにも多恵ちゃんがこの世からいなくなってしまうことを前提とした話ではなく、ふたりの命をかけてもいいような、この世でたった一度の表現の場にしよう、という意味をこめたつもりでした。こうして書くと、命をかけるなどという大げさな言葉を使う資格がぼくにはまだあるように思えませんが、多恵ちゃんを思い出すたび、表現とは命をかけて表してこそ表現になるのだと思わないではいられません。
多恵ちゃんと出合ったのは、長野県の女神山で開かれたアート・オブ・リビング・セミナーという集いででした。そのセミナーのサポートスタッフだったぼくはチラシを作り仲間内にも告知していましたが、それを見た多恵ちゃんは、「きれい、こんな美しいチラシのセミナーなら」と、この時もいの一番に参加を申し込んでくれました。
今でも思い出します。会場で待ち受けていたぼくは、ああこれが多恵ちゃんだとすぐにわかり、「マサヒロです」と自己紹介し、「多恵子です」と微笑みながら答えてくれました。それからわずかに二年ばかりのおつきあいでしたが、どうやら人と人はふれあう長さだけではないようです。あのセミナーの最後に、多恵ちゃんはすっくと立って歌ってくれました。歌詞もメロディーももう覚えていませんが、死ぬまで忘れることができなくなった多恵ちゃんの存在は、これからの表現の力強い糧になってくれると思います。