写真の何たるかなどおそよ考えもしないで気ままに日常を撮り続けていたころ、近所の里山に秘密の原っぱと名づけた一画を見つけ、毎日のように通っていた。どこか田舎の小学校の運動場ほどもある広さで、以前は重機まで放置された、言うなれば廃棄物の捨て場のような草地だった。露が降りる朝など寝っ転がってその様子をマクロレンズで覗いては、ただただ感動していた。小さな世界の光り輝く美しさにため息が漏れ、いい年をしてときに涙まで流したり。今から思うとまるでおとぎ話に魅了された少女のようで、こうして書いてみると恥ずかしくさえある。
飯館村の長泥地区を目指して林道を走っていると、なんとも懐かしい風景に出会い、思わず車を停めた。あの、秘密の原っぱにそっくりな空き地の中をひととき彷徨い歩いた。どこにでもありそうな山あいの、荒れ地。人の営みにとってはどれほどの価値もないかもしれない。だがそこには様々な生命が息づいている。目に見える木々や草花だけでなく、目を凝らしても見つけられない春や夏の野鳥、空中を舞い足下を這う様々な昆虫、地中は名もない微生物たちの住処、もちろん獣たちの山でもある。朝露が連なる蜘蛛の巣などに気づけば、まるで宝石でも拾ったように幸せな気持ちになるだろう。久しぶりの原っぱの感触に浸りながら、どうしてもまた放射能のことに思いが戻った。
たとえば今の政治家や経済人から、自然、という言葉を聞いた記憶がない。彼らから連想するものは、経済、金、都会、街、電車、便利、コンビニ、デパート、買い物、薬、鬱病などと、上げれば上げるほど気が滅入る。人の暮らしは、もうどうしようもないほど自然からかけ離れている。たまの休みに出かける行楽が関の山。登山が趣味だとしても生活とは別の枠組みにある、それらは一種特別な埋め合わせの時間。身近な自然の中で、しかも身近な生き物たちの領域を冒さない暮らしというものを、いったいいつの頃より失ってしまったんだろうか。
都会への電力供給という名目で、経済優先の原子力発電所を過疎の村に連ね、挙げ句の果てに愛すべき広範な身近な自然を破壊してしまった。人間には嫌でも仕方なくでも離れる選択があり、だが自然は汚されたまま取り残された。帰還困難区域。なんと身勝手な言葉だろうか。犠牲にあったのは、果たして何と何と何者なんだろうか。
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