FKキッズ交流キャンプに何度も参加しているたとえばユウタはまだ一年生で、初めて出合ったのが三年前の冬、この間に成長する姿を間近で見守ることができた。この年頃の変化はとても著しい。どこか赤ん坊の雰囲気さえ漂っていた子が今では芯のある言葉を発したりしてハッとさせてくれる。非日常のキャンプと、この頃は気軽にお邪魔するようになった福島市の日常の様子とで、ますます身近な間柄になっている。ユウタの未来にいくらかでも参加していることに気づくと、福島原発事故がもたらしただろう数ある希有な出合いのひとつを経験している不思議と、その陰に秘かに隠れている責任のようなものを感じる。親ではないおとなの話に、子どもたちは真剣に耳を傾けていることを決して忘れてはならない。
今でもときどき思い出すのは、あの冬のキャンプが定員を大幅に上回り、なんと四十人を越える参加者を招いたことだ。その最後の最後がユウタとおかあさんのヤスコさんだった。「ぜったいに参加したいんです。ズルしてもいいから入れてください」という電話での申し込みだった。面白い人だと思った。人の気持ちは、人へと乗り移るものなんだろう。ほかにも数ある保養プログラムの中でFKを選んでくれるという意味を考えることはなかったけれど、あのヤスコさんの子を思う親心が今の関係を創り出すきっかけになったことだけは確かだ。
朝が苦手なユウタと、ユウタを追い立てるように行動を促すヤスコさんとのやりとりは、まるでホームドラマのようにしてどうやら毎日繰り返されている。放射能問題はこの国の非常事態ではあるけれど、日常は、ここでもほかのどの町の日常とも変わらず常に営まれている。大事な日常のために、キャンプなどの非日常があるのかもしれない。放射能問題にはできるかぎり注視しながら、大事なものは日常でこそ育む。人の営みというものは、いつも変わることがない。
巨大な津波と原発事故が、愛すべき数々の日常を奪い、今も奪い続けている。福島の子どもたちと共に過ごしながら、だからそれを忘れたことがない。陰に隠れている責任とは、忘れないでいることかもしれない。どんな事態に陥ろうが、常に前を向いて日常を営みながら。
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