2018年7月31日

だんまりと




 父と息子という間柄をこんなにも意識したことは、互いにそれなりに長い人生を生きながらこれまで一度もなかったような気がする。「よく似てますねえ、そっくりやわ」と中堅どころの看護師が呆れて感心するほど、どうやら側から見ると生き写しというやつのようだ。おやじと一緒にされることを拒む気持ちはないけれど、でも中身は大きくちがうのだと、ずっと思い続けてきたかもしれない。あれこれと考える人を装う息子と、何一つにも関心を示さず、ただ息をして、食べて寝転んでいるようなおやじと。

 軍隊へは自ら志願して入ったと、見合いをする前の青年の話を母がしてくれたことがある。なんでもその方が少しでも出世するだろうと思ってのことだったらしく、伍長という地位に付いた。下には二等兵と一等兵がいたことになるのか、大正15年生まれを誇りにするような妙なところがある、当時の若造がどんな顔して振舞っていたのやら想像もつかない。いよいよ戦地へ派兵されるという直前に敗戦、まだ19歳の頃だ。いつだったかテレビの映像を見ながら“チョンコロ”という言葉をおやじが発した。差別だと知らない無邪気なだけの子供でも、なんとなく嫌な気分になったのを覚えている。戦争そのものをどう考えていたんだろう。期待する答えが返ってくるとは思えないけれど、忘れたわい、なんも覚えとらん、としか言わない今では何もかもが遅すぎる。

 おやじに膀胱癌の診断がくだって以来、人は衰えて当然と眺めているだけだった息子の気持ちにちょっぴり変化が生じ、近所へと花見に連れ出した。おお、きれいやなあと、一言だけ。あとはだんまり、桜花を見ているのか、それとも空でも見上げているのか、親子でもよく分からないことばかりなのは、気持ちも会話もずっと交わしてこなかったつけが回ってきたということか。せめてものことにと、ようやく使い慣れてきた二眼レフのファインダー越しに、こちらも黙っておやじを見つめた。

 本当は生まれ育った小松の街やよく遊んだという梯川のほとりを歩いてもよかったのに、もう少しあったかくなってからと日延べしているうちに、いつしかその気が薄れ、血尿が止まらず貧血でよろよろし出したのを潮時に入院生活と相成った。何事も自然な成り行きに任せようぐらいな息子は、老化も死も、だれにだって訪れる当たり前な姿だと分かり切っているはずが、病んでいる本人に確たる意思を感じず——と思い込んでいるだけなのかもしれないがと、これを書きながら一瞬不安にもなり——いろいろに迷い、結局医者が奨める放射線治療を癌が膀胱の半分にもなった今さら選択した。

 その責任を感じているのか、そうせずにはいられない、まるで強迫観念に背中を押されるようにして毎日病室を訪ね、互いに耳が遠いこともあって相変わらず大した会話もなく、だんまりと、ほかにすることもないのでしばらく肩や背中をほぐしてやるばかり。気持ちがいいともなんとも言わず、終わると、あんやとと軽く頭を下げる。それだけのことが二週間あまり続いている。

 ベッドの横のポータブルトイレに物憂げに座りこむおやじが窓からの仄かな光に浮かび上がる。さながら考える人のようでもあり、代わりにおもむろにベッドに移り、一枚そっと収める。こんな時の二眼レフは、シャッター音さえほとんど感じずに済み、ミラーアップもないから撮る瞬間もおやじの様子を見ていられる、実にいいカメラだ。痛ましいおやじの中に、彫像のごとき厳然とした力が隠れているような、気がした。

 戦争にしても役所勤めで強いられたという収賄の前科一犯にしても、おやじが生きた日々に果たして思考はあったのか、大きなもの、たとえば権力を疑うということはなかったのか、結局長いものに巻かれただけなのでは、などと無責任に思いめぐらすことがある。そしていつも、このおやじがいて、この息子の人生もあったという一点にたどり着く。お互いのちっぽけな人間としての存在と日々、今もその一コマとして向き合っている。これにまだ迷い多き我が息子がいて、わずか三代ばかりの系図とも言えないちっぽけな繋がりのあれやこれやが何事もなかったかのように、果てしなく、あるいはいつしか途絶えてしまう、だけなんだろうか。

 とにかく不思議にも、片時も休まずおやじのことを思っている。半時ほど過ごす病室でより、離れてこそより深く味わうように感じている。これがもしも、どんな人生でもそれを終えてゆく最後の過程にある何か大事なものの一つだとしたら。父と息子の、どちらが先に逝くのか、決してわかったものでもないけれど。