2015年4月11日

一年生




     知っていますか?
     一年生になりました

     見えていますか?
     君にそっくりです
  
     届いていますか?
     この笑顔










 

2015年3月11日

小川




 飯舘村は、ほんのひとときぶらぶらしただけで気に入ってしまった。たとえばこんな小川。ありそうで、近ごろは滅多に出合えない。茅で溢れかえる身近な自然、降りて行く土手の傾斜や川幅といい子どものスケールにぴったりだ。田んぼの取水用なんだろうか。その用途など考えることもなく、あの頃の少年は小川を自由気ままに振舞える世界として一日中でも飽かずに過ごした。竹竿があれば川の中ほどをひと突きして向こう岸にまで飛び跳ねた。何度かずぶれになったこともあるけれど、そのまま川底を手や足でまさぐりぬるぬるとした感触を楽しんだのは、いったいなにが目的だったんだろう。ウグイ釣りも懐かしい。子どもの手作りの棹が十分使い物になった。

 今日は3月11日。あれから四年が経った。朝刊の、飯舘村村民へのアンケート結果を読んだ。およそ三割の人が村に戻る希望はあるかとの問いにイエスと答えていた。おそらくは若い世代を中心に帰還はますます考えにくいものになっていくだろうが、老いて行く人々には、この風景の味わいは離れてこそなお深く迫ってくるのではないか。よそ者にさえ、ただならぬ風景だ。

 福島県内に残る人たちの真意を疑う声を一頃よく聞いたものだ。危険な環境から避難するのは当たり前ではないか、子どもたちの健康や未来を最優先すべきだ、などと。だがそれは当事者が一番よく感じていることだろう。いまだに保養プログラムの存在さえ知らずに残って普通に生活している人たちもいるかもしれないけれど、それぞれが選んだ暮らしに対して事情も知らず無闇矢鱈と放言する気にはなれない。放射能の存在を気にしながら、それを毎日忘れることなく注意深く暮らせるほど人間は強くないし、だからと言って、なにもかも諦めて気ままに暮らしているわけではないだろう。

 飯舘村の中に入り半日ほども経った頃、除染の風景から湧き上がった違和感が気がつけば薄らぎ、風景そのものに馴染み出しているのを感じた。汚染された土地に人が戻って欲しいとは思わない。やがて戻る人たちがいたとしてもその行動をとやかく言うつもりにもなれない。土地と人の関係は、それぞれの人生で生きた舞台と主役のそれと同じだろう。どんなことも、選択は生き方、演じ方の問題なのだ。行く川の静かな流れを見つめながら、会ったこともない村の人たちのこれからの気持ちを想像してみた。










2015年3月10日

秘密の原っぱ




 写真の何たるかなどおそよ考えもしないで気ままに日常を撮り続けていたころ、近所の里山に秘密の原っぱと名づけた一画を見つけ、毎日のように通っていた。どこか田舎の小学校の運動場ほどもある広さで、以前は重機まで放置された、言うなれば廃棄物の捨て場のような草地だった。露が降りる朝など寝っ転がってその様子をマクロレンズで覗いては、ただただ感動していた。小さな世界の光り輝く美しさにため息が漏れ、いい年をしてときに涙まで流したり。今から思うとまるでおとぎ話に魅了された少女のようで、こうして書いてみると恥ずかしくさえある。

 飯館村の長泥地区を目指して林道を走っていると、なんとも懐かしい風景に出会い、思わず車を停めた。あの、秘密の原っぱにそっくりな空き地の中をひととき彷徨い歩いた。どこにでもありそうな山あいの、荒れ地。人の営みにとってはどれほどの価値もないかもしれない。だがそこには様々な生命が息づいている。目に見える木々や草花だけでなく、目を凝らしても見つけられない春や夏の野鳥、空中を舞い足下を這う様々な昆虫、地中は名もない微生物たちの住処、もちろん獣たちの山でもある。朝露が連なる蜘蛛の巣などに気づけば、まるで宝石でも拾ったように幸せな気持ちになるだろう。久しぶりの原っぱの感触に浸りながら、どうしてもまた放射能のことに思いが戻った。

 たとえば今の政治家や経済人から、自然、という言葉を聞いた記憶がない。彼らから連想するものは、経済、金、都会、街、電車、便利、コンビニ、デパート、買い物、薬、鬱病などと、上げれば上げるほど気が滅入る。人の暮らしは、もうどうしようもないほど自然からかけ離れている。たまの休みに出かける行楽が関の山。登山が趣味だとしても生活とは別の枠組みにある、それらは一種特別な埋め合わせの時間。身近な自然の中で、しかも身近な生き物たちの領域を冒さない暮らしというものを、いったいいつの頃より失ってしまったんだろうか。

 都会への電力供給という名目で、経済優先の原子力発電所を過疎の村に連ね、挙げ句の果てに愛すべき広範な身近な自然を破壊してしまった。人間には嫌でも仕方なくでも離れる選択があり、だが自然は汚されたまま取り残された。帰還困難区域。なんと身勝手な言葉だろうか。犠牲にあったのは、果たして何と何と何者なんだろうか。










2015年3月9日

ゲート



 帰還困難区域と呼ばれる地区が出来てしまったというのに、時間の経過と共にさもそれが当然かのように聞き流されている気がしないでもない。ゲートの前に立つと、これは悪い冗談ではないのかと思ってしまう。この先には、線量が高いという長泥地区がある、ようだ。人が住めないとはどういうことなのか、なぜそんなことが起こっているのか。わーっと騒いだあと、日本人はなぜこんなに静かになれるのか。自分のこととしても、不思議に思う。里山もここまで深く分け入ると、静かな風景の中で己の内側にも気が向くようになる。

 里から車で10分ほども走っただろうか。ゲートの前に辿り着くと、警備の人がぽつんとひとり立っていた。こちらを発見するや丁寧に頭をさげ、Uターンを指示した。降りてゆっくりと近寄る。「写真を撮らせてください」。旗やなにやらを移動して場所を空けてくれた。真正面から一枚だけ撮り、あなたの姿も撮らせてほしいと頼んでみた。「それはできません」と即答するマスク越の小さな声が聞こえた。放射能で汚され立ち入りできない地域の前で、一日中立っているのだと言う。仕事とは言え、他人事とは言え、なんともやり切れない気持ちになった。この状況は尋常ではないだろう。この状況に深く起因している人々は、果たしてどんな気持ちを抱いているのだろう。不思議でならない。帰還困難区域を設け、何かを解決した気持ちにでもなっているのではないか。帰還困難区域を作ってしまったことに、だれもなんの責任も取らない、取れそうにない。










2015年3月8日

日本で最も美しい村







 放射能被害が明るみに出るにつれ取り上げられるようになった飯舘村を調べているうち、「日本で最も美しい村」が全国各地にあることを知った。飯舘村もその連合の一員として、経済発展ばかりを掲げる国の方針などに頼らず独自の道をこつこつと歩んでいたにちがいない。その頃に「までい」という言葉もよく見聞きしたものだ。ネット上にこんな記事を見つけた。

 私たちは、親や年寄りから「食い物はまでいに(大切に)食えよ」「子供はまでいに(丁寧に)育てろよ」「仕事はまでいに(しっかりした・丁寧に)しろよ」と教えられてきました。手間隙を惜しまず、丁寧に、心をこめて、時間をかけて、じっくりと、そんな心が「までい」にはこめられているのです。

 飯舘村に入るとまでいが生きていた四年前の雰囲気が、今もそのまま残っているような気がした。見える風景は、住んでいる人がほとんどいないのだから、当然だが殺伐としていた。南相馬から県道12号線で八木沢峠を越えて入ると、道沿いの家にも畑にも人影はなく、降りてうろうろ徘徊することが憚られるほどに静かだった。田んぼはつんつん草で覆われていた。これが生えてくると厄介なんだと、すべて抜き取る作業に精を出したのは二年前に手伝った輪島の鴻の里でだった。飯館の田んぼは人にとって厄介なものの安住の地になっている。だが土地とそこに住んだ人の気とは凄まじいものだ。おそらく絶えることがないのではないか。野良仕事の声や笑顔が想像できた。

 日本で最も美しい村連合のサイトを探しても、飯舘村の名前はもう見当たらなかった。放射能汚染がこの村のすべてを奪い去った。あちこちで見かける大規模な除染作業でその場の線量はいくらかでも低下するだろうが、のびやかに広がる山並みを望みながら感じたのは、人間の愚かさばかりだった。村を愛した人たちはいまどこでどうしているんだろう。仮設住宅、避難という言葉は、他県の者には現実味が感じられなかったけれど、村に一歩踏み入り一軒の空き家を前に佇んでいると、その意味が言葉もなく急に押し寄せ、胸を圧した。

 日本で最も美しい村の人たちは、今も各地で静かな営みを続けているだろうか。営みは、当たり前に与えられるものではなかったことを、飯館村が教えている。までいに暮らせよ、と。










2015年3月7日

日常




 FKキッズ交流キャンプに何度も参加しているたとえばユウタはまだ一年生で、初めて出合ったのが三年前の冬、この間に成長する姿を間近で見守ることができた。この年頃の変化はとても著しい。どこか赤ん坊の雰囲気さえ漂っていた子が今では芯のある言葉を発したりしてハッとさせてくれる。非日常のキャンプと、この頃は気軽にお邪魔するようになった福島市の日常の様子とで、ますます身近な間柄になっている。ユウタの未来にいくらかでも参加していることに気づくと、福島原発事故がもたらしただろう数ある希有な出合いのひとつを経験している不思議と、その陰に秘かに隠れている責任のようなものを感じる。親ではないおとなの話に、子どもたちは真剣に耳を傾けていることを決して忘れてはならない。

 今でもときどき思い出すのは、あの冬のキャンプが定員を大幅に上回り、なんと四十人を越える参加者を招いたことだ。その最後の最後がユウタとおかあさんのヤスコさんだった。「ぜったいに参加したいんです。ズルしてもいいから入れてください」という電話での申し込みだった。面白い人だと思った。人の気持ちは、人へと乗り移るものなんだろう。ほかにも数ある保養プログラムの中でFKを選んでくれるという意味を考えることはなかったけれど、あのヤスコさんの子を思う親心が今の関係を創り出すきっかけになったことだけは確かだ。

 朝が苦手なユウタと、ユウタを追い立てるように行動を促すヤスコさんとのやりとりは、まるでホームドラマのようにしてどうやら毎日繰り返されている。放射能問題はこの国の非常事態ではあるけれど、日常は、ここでもほかのどの町の日常とも変わらず常に営まれている。大事な日常のために、キャンプなどの非日常があるのかもしれない。放射能問題にはできるかぎり注視しながら、大事なものは日常でこそ育む。人の営みというものは、いつも変わることがない。

 巨大な津波と原発事故が、愛すべき数々の日常を奪い、今も奪い続けている。福島の子どもたちと共に過ごしながら、だからそれを忘れたことがない。陰に隠れている責任とは、忘れないでいることかもしれない。どんな事態に陥ろうが、常に前を向いて日常を営みながら。











 

2015年3月6日

FKキッズ




 福島の子どもたちが放射能問題から少しでも離れることができるようにと、今も全国各地で保養プログラムなるものが開かれ、その気持ちのある保護者のみなさんがかわいい我が子を手元から離し参加させている。そんなプログラムのひとつ、「ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ」にかかわるようになり、これで有に百人を越える子どもたちと出会っている。ふくしまのF、かなざわのKが交流するから、FKキッズと呼んで、今ではまるで親戚のおじさんのような気持ちでいる。何回も参加している子にはとくに、キャンプ以外でも会いたいと思う。福島市で開かれた保養プログラムの相談会に出たついでに、福島の今を見ておくつもりで県内を駆け回った。いわきに入ったのが折しも下校時間に近いころで、もしかすると合えるかもしれないと儚い思いを抱いて、十人ものFKキッズが通う中学校へ向った。全員女の子だ。FKが初めて開いた夏のキャンプに四人、そのあとの冬にいきなり十人がやってきた。彼女たちとの出会いがなければ、FKはこうまで続かなかったかもしれない。それがおとなでもこどもでも、出会いがもたらす妙というものを感じないではいられない。

 校門から大勢の中学生があふれ出てきた。黄色い旗を持ち、さようなら、さようならとひとりひとりに声を掛けているおとなはおそらく先生だろうと、生徒の写真を撮る承諾を得るため近寄った。「教頭の許可を得てください。この頃はぶっそうな世の中ですから」との返事に、そうだよな、面倒な世の中になったものだと、時間を割いてみたが甲斐なく断られ立ち戻った。その数分間にお目当てのFKキッズが流れ出たものか、そろそろあきらめようかというころになって、ひとり、懐かしい顔が現れた。「やっ!」と近寄る。びっくりするのは当然だが、その後の会話がぎこちなく、続かない。親しい気持ちはあるけれど、思い出深い石川でのキャンプならまだしも、日常にいきなりでは馴染めないのもまた当然か。途切れがちに言葉を交わし、せめてものことにと、中学生になった姿を撮らせてもらった。

 ナナは落ち着いた子だ。真っすぐにカメラを見つめ返している。まだ撮り慣れていないローライフレックスを確認しながらゆっくりと操作し、無言で対話するようにピントグラスを覗いた。ほんの短い時間だったが、過ぎてしまうのがもったいないほど豊かな気持ちになった。日本中に大勢の子どもたちがいても、ほとんど出会うことなくそれぞれの人生は終わる。原発事故が起きてしまったがために出会った仲だと思うと、この一枚の写真がいつかおかあさんになった頃にでも改めて見直すときのために、丁寧にプリントして残しておきたい。老いながらも写真家を志す飽くなき者がキャンプの主催者でもあるのだ。子どもたちの素の姿を撮りたいと、ようやく思いはじめている。












2015年1月31日

魂がふるえるとき




 録画しておいたNHK「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」で石牟礼道子さんの回を見た。石牟礼さんは、魂という言葉を何度か、しかもさりげなく、まるでこぼれ落ちる雫のようにとても自然にささやかれた。魂の存在を実感できないでいたこの凡夫は、その飾らない表現に戸惑いながらも、見えない存在をこの世のものとして考えたいという気持ちになった。石牟礼さんの最近のインタビューが『風の旅人』復刊第4号にも掲載されていて、その最後にはこんな言葉が並んでいる。

 「『石牟礼さんは、“魂” とよくおっしゃるけど、眼に見えないものを信じるのか』って言われたことがありまして、びっくりしましてね。魂があるから、ご先祖を感じることができるでしょ。みんなご先祖を持っているわけですね。それは人間だけでなくて、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる。それは、美に憧れるのと同じだと思います」。

 目先のことばかりに気を奪われて暮らしていることに、実はもうとても疲れている。写真家を志しながら撮れない日々が続いているのも、それと無関係ではないだろう。インドの人生哲学になぞらえればそろそろ林住期や遊行期を意識し出していい頃合いかもしれない。この数年福島の子どもたちを招いて開く保養キャンプに熱中している。子育てが遠の昔に終わっているのだから、人生の終盤ぐらい自分ではない他者のために生きてみるのもよさそうだ、ぐらいの軽い気持ちから始めたことだった。それが今ではどうだ。何十人もの仲間と出会い、おそらく二百人を越える子どもたちと身近な自然に抱かれ、負けずに飛び跳ねている。この変わり様に、自分が一番驚いている。

 子どもは未来、などという言葉は垢にまみれて使い古されたものにしか感じられなかったが、実際子どもたちと出会い体丸ごとでふれあう仲になると、彼らが未来そのものであることがまるで手に取るように実感できる。キャンプ期間中などは、あらゆる瞬間に未来を感じている。未来が笑って泣いて、目の前で呼吸している。ボランティアなどにはあまり関心がなかったせいか、有志の力で成り立つキャンプは多分その類いに含まれるものだろうが、今もほとんどその意識がない。これはボランティアでも助け合い運動でもない。出会ってしまった未来という仲間と、果てしない夢を追う、個人的にはほとんど写真を撮るという行為にも似た、いわば表現活動だ。熱中して、もう止められない、生きるという範疇に入る、とても自然な行為だ。時に心身がふるえるような瞬間に出会うけれど、もしかすると、震えているものの正体を魂と言うのではないか。石牟礼さんがさらりと言ってのける魂の響きを、少し感じられるようになっているかもしれない。

 キャンプの仲間には、その道で豊かな経験を持つ人も多い。自然体験活動というジャンルがあるくらいだ。だが経験は時に邪魔になる。このキャンプには表面的な課題がとても多い。多いという程度では済まされない。むしろ課題で出来ていると言っていいだろう。素人が代表をしている会の活動をお決まりな枠に、あるいは先進的なものを当てはめ調えようとすると、関係がぎくしゃくしてしまうことを何度か経験した。キャンプを滞りなく無事に成功させることを目標にするのは大事なことだが、それ以上に、課題を克服することじたいを、そのプロセスの中から生まれる交流こそを、もっとも大事なものとして抱えていたいと考えるようになった。ここからは想像に過ぎないけれど、そうして抱えているものの中に、魂が伝えようとしている生命の息吹きがあるような気がしてならない。眼の前の見えているものだけで判断してはならないのだ。傍で飛び跳ねている存在こそが未来なら、視線は出来るかぎり遠くへと注ぐ必要があるだろう。

 石牟礼さんは、しかも先祖の話をされている。ひとりひとりがこの世に生まれ落ちるために、いったい何人の先祖が存在したものだろうか。生まれてきたことに意味があるとかないとかの話ではない。すでに何千年という壮大な時間をかけ、何世代も受け継いできた人間と、そして生き物たちの長い長い歩みのほんの一部が今、眼の前に現れているに過ぎないことを、魂という存在を通して考えてみようではないかと、先達はそう示しているのだと思う。やがてはだれもが先祖になる。未来の礎として、魂を手渡すようにして。










2014年11月24日

眠る人




 ゆいちゃんは、明日25歳の誕生日を迎える。その二日前だというのにプレゼントも持たずにのこのこ出かけ半日以上もお邪魔した。相変わらず気の利かないこの友を、ゆいちゃんはどう感じているだろう。福島の子どもたちとのキャンプを開くようになって以来の、数年ぶりの再会だった。とても美しい娘に成長していた。と言うより、美しく成長しているのをこの目と心で確かに感じられるようになっていた。これまでにも何度か会う度に撮って撮られるひとときを持ったけれど、なぜ撮るのか、撮ってどうするのかという己への疑念というような思いに苛まれていた気がする。撮るということの中に、どこか打算があるような気がしてならなかった。だからだろう、美しい姿にたじろぐばかりで心を全開することもできずにひたすらシャッターを押していたのだろう。

 美しい。ため息まじりにつぶやくと、鎮静剤で眠っていたゆいちゃんが一瞬目を開き天空を見つめた、ような気がした。答えてくれたのだ、と思った。おそらく見えないゆいちゃんにしか見えないものがあるのだろう。瞼を閉じていても見えている世界が存在しているにちがいない。子どもだとばかり思っていたのに、まるで神々しいばかりの女神のように感じられた。

 写真を撮るということは見える対象にレンズを向けるという単純な行為にはちがいないが、その時写真家が向き合おうとしているのは、対象が奥深い懐に湛えている澄んだ湖のような、鏡とも言える存在なのかも知れないと、先日井津建郎さんはじめ数人の写真家が集う場に参加して以来感じている。あえて撮る理由を上げるなら、その鏡に映り見せられる自分という存在を恥じらい、その場から消し去ってしまうことなのだ。少なくともこの凡夫にとってはそうなのだと確かに思える。

 ゆいちゃんはリー脳症という難病を患っている。2歳で発症し、余命幾ばくもないと診断されたそうだ。初めて会ったのは、15年ほども前になる。自宅を会場にホームコンサートが開かれ、演奏した和歌山の友人福井幹を介して知り合うことになった。友だちだと感じた第一印象は今でもはっきりと覚えている。障害や難病と共にある人に出会うといつも尻込みするのが常だったが、その時ばかりは不思議だが懐かしい再会という気持ちにさえなった。だがそれは表面ばかりを見ていたのに過ぎなかったことが、今ならよくわかる。何年もの間ゆいちゃんの姿を見ているようで、実は見ないようにしてきたようだ。撮ることはあっても、撮れないことを知っていたような気もする。

 ならばこれからは撮れるのか、本当にはわからない。ただこれまでになく心を開いて向き合っているのがわかった。おかあさんの真由美さんと話しながら、撮りながら抱えていた打算のような、もやもやとした薄汚れた衣を脱ぎ捨てているのを感じた。自分から発信するものなど何ひとつないこと、あるいはその場を共有するだけで互いに感じられる生の歓び、言葉にするとあまりに軽く陳腐になるばかりだが、撮りながら眠る人と共に見えないものに近づいているような気がしてならなかった。

















2014年11月16日



 この世でもっとも美しい瞳を持った友がいる。澄んだ湖の水底まで見透かせるような透明度を持っている。覗き込むと、濁った己の瞳が映り込んでハッとさせられる。年に一二度会いに行く程度で果たしてゆいちゃんは友と思ってくれているだろうか。これまで何度か撮る機会があり、その都度撮り続けたいと心の隅で感じていた、ゆいちゃんの瞳。ただ己が浄化されたいだけなのか、撮りたい気持ちの裏にあるものを掴めないまま、出会って十年以上も過ぎてしまった。けれど今、ようやく気づいた。友だから撮りたいのだ。

 先日井津建郎さんはじめ数人の写真家が集う場に参加する栄に浴し、写真家の何たるかを自分なりに感じることができた。写真を撮り写真で表現するとはどういうことだろうか。写真とは見える対象に向き合いながら見えない世界にまで手を伸ばそうとする、いわば旅そのものだ。我が身に置き換え考えてみた。何も遠くへと足を運ぶばかりが旅ではないのだと、今ならよくわかる。友の澄んだ魅惑の瞳に旅をするのだ。ゆいちゃんに会いに行こう。会いたい者が自ら動かなければ会えないゆいちゃんに。