ゆいちゃんは、明日25歳の誕生日を迎える。その二日前だというのにプレゼントも持たずにのこのこ出かけ半日以上もお邪魔した。相変わらず気の利かないこの友を、ゆいちゃんはどう感じているだろう。福島の子どもたちとのキャンプを開くようになって以来の、数年ぶりの再会だった。とても美しい娘に成長していた。と言うより、美しく成長しているのをこの目と心で確かに感じられるようになっていた。これまでにも何度か会う度に撮って撮られるひとときを持ったけれど、なぜ撮るのか、撮ってどうするのかという己への疑念というような思いに苛まれていた気がする。撮るということの中に、どこか打算があるような気がしてならなかった。だからだろう、美しい姿にたじろぐばかりで心を全開することもできずにひたすらシャッターを押していたのだろう。
美しい。ため息まじりにつぶやくと、鎮静剤で眠っていたゆいちゃんが一瞬目を開き天空を見つめた、ような気がした。答えてくれたのだ、と思った。おそらく見えないゆいちゃんにしか見えないものがあるのだろう。瞼を閉じていても見えている世界が存在しているにちがいない。子どもだとばかり思っていたのに、まるで神々しいばかりの女神のように感じられた。
写真を撮るということは見える対象にレンズを向けるという単純な行為にはちがいないが、その時写真家が向き合おうとしているのは、対象が奥深い懐に湛えている澄んだ湖のような、鏡とも言える存在なのかも知れないと、先日井津建郎さんはじめ数人の写真家が集う場に参加して以来感じている。あえて撮る理由を上げるなら、その鏡に映り見せられる自分という存在を恥じらい、その場から消し去ってしまうことなのだ。少なくともこの凡夫にとってはそうなのだと確かに思える。
ゆいちゃんはリー脳症という難病を患っている。2歳で発症し、余命幾ばくもないと診断されたそうだ。初めて会ったのは、15年ほども前になる。自宅を会場にホームコンサートが開かれ、演奏した和歌山の友人福井幹を介して知り合うことになった。友だちだと感じた第一印象は今でもはっきりと覚えている。障害や難病と共にある人に出会うといつも尻込みするのが常だったが、その時ばかりは不思議だが懐かしい再会という気持ちにさえなった。だがそれは表面ばかりを見ていたのに過ぎなかったことが、今ならよくわかる。何年もの間ゆいちゃんの姿を見ているようで、実は見ないようにしてきたようだ。撮ることはあっても、撮れないことを知っていたような気もする。
ならばこれからは撮れるのか、本当にはわからない。ただこれまでになく心を開いて向き合っているのがわかった。おかあさんの真由美さんと話しながら、撮りながら抱えていた打算のような、もやもやとした薄汚れた衣を脱ぎ捨てているのを感じた。自分から発信するものなど何ひとつないこと、あるいはその場を共有するだけで互いに感じられる生の歓び、言葉にするとあまりに軽く陳腐になるばかりだが、撮りながら眠る人と共に見えないものに近づいているような気がしてならなかった。
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