微笑みをたたえる高さんにようやく出会えた。鴻さんの家から何百メートルも下にある自宅から実った野菜をいつも歩いて届けに来られる。田舎の親しいご近所づきあいはよく聞く話だが、九十歳を越えて柔らかな足取りで急坂を上り下りしては顔を出されるのだから驚く。「あんたさん、どこぞの方やいね」と問われ、「鴻さんの友人です。稲刈りの手伝いにきました」とそのまま答えた。思えばそんな会話さえうれしい。能登を歩きながら何人もの方を撮ってきたけれど、そのほとんどどれもが行きずりの旅で出会う片時のものだった。能登に暮らしているわけではないのに、今は少し身近に感じられる。撮ることだけならだれでも簡単にできる世の中だ。だがその方が何を思い、何を哀しみ、何を楽しんでいるかも知らないで、果たして撮ってどんな意味があるのか。九十年は長かっただろうか。どんな人生を歩んでこられたのか。微笑みまじりのひとときを何度でも過ごしてみたいものだ。
2013年10月31日
鴻の里 #012 微笑み
微笑みをたたえる高さんにようやく出会えた。鴻さんの家から何百メートルも下にある自宅から実った野菜をいつも歩いて届けに来られる。田舎の親しいご近所づきあいはよく聞く話だが、九十歳を越えて柔らかな足取りで急坂を上り下りしては顔を出されるのだから驚く。「あんたさん、どこぞの方やいね」と問われ、「鴻さんの友人です。稲刈りの手伝いにきました」とそのまま答えた。思えばそんな会話さえうれしい。能登を歩きながら何人もの方を撮ってきたけれど、そのほとんどどれもが行きずりの旅で出会う片時のものだった。能登に暮らしているわけではないのに、今は少し身近に感じられる。撮ることだけならだれでも簡単にできる世の中だ。だがその方が何を思い、何を哀しみ、何を楽しんでいるかも知らないで、果たして撮ってどんな意味があるのか。九十年は長かっただろうか。どんな人生を歩んでこられたのか。微笑みまじりのひとときを何度でも過ごしてみたいものだ。
2013年10月25日
鴻の里 #011 星が降る夜
里山の夜。イノシシ対策のために鴻さんたちは夜中でも交替で爆竹を打ち鳴ら
すようになった。始めて以来、田んぼに侵入する気配はなくなっているようだ。
どんなに疲れて眠っていても、鋭い爆発音でいつも目が覚めた。ほとんどすぐに
また寝入ってしまうのだが、その夜は外へ出る気になった。街灯のない里の暗闇。
目が慣れるまでにかなり時間がかかる。山で使っているヘッドライでは明るすぎ
てせっかくの闇が台無しになるだろう。思いついてスマホのアプリにあるライト
で足下を照らすと、割と具合がよかった。なんと美しい星空。湿気のせいか曇っ
たレンズが柔らかに焦点をぼかした。里山の夜はまるでお伽の国に迷い込んだ気
分にさせてくれる。付近を彷徨っているだろう獣たちにこの星は見えているだろ
うか。静寂の中では感じているものを言葉に置き換えないでおこう。ただ眺めて
いればいい。撮ることと立ち尽くすことで半分ずつにした。夜空に瞬くものはい
つの時代の光なんだろうか。あのとき感じていたものと、宇宙の遥かかなたから
降ってきているものとになにやら関係がありそうな、里山の夜は不思議な気分に
させてくれた。
2013年10月24日
鴻の里 #010 一日を終える
一日の仕事を終える。同じように日々を過ごしてきたはずなのに、この頃一日
を終えるという感覚をあまり感じなくなっている。精一杯、可能なかぎりを尽く
して生きていないからだろうか、もう決して若くはない世代に入り日常に慣れ切
ってしまったんだろうか、などと時折思いをめぐらした。だがなんと言うことも
なかった。どうやら自然のリズムを感じない生活に陥っていたようだ。朝の光を
感じて目覚め、暮れ行く空を見上げてほっと一息をつく。その間の明るい時間に
風に吹かれ、雨に打たれ、あるいは陽を浴びて大地に立つ。あまりに自然でつい
やり過ごしてしまう身近な現象との関わりからしか感じられない生の実感という
ものがあるのだろう。暗くなるまで飛び回り、恐る恐る開けた長屋のドアの内側
に鬼の顔をしたおふくろが立っていた、あの子どもの日々が今、急に蘇ってきた。
生きながら自らに背負わせてしまうものこそそれぞれの人としての重みにもなる
のだろうが、その重荷を一つ二つと足下に下ろしてみる夕暮れ時を境にして、静
かな闇の世界に入って行く。闇に佇み、どこか安堵した、眠りにつく暗い時間に
もまた生がある。老いてなお生き生きと内に宿る懐かしい子よ、お前はいま何処
にやある。闇でこそ、一日をしかと終えてこそ、感じられるものがある。
2013年10月23日
鴻の里 #009 煙り
囲炉裏の煙りに心まで燻されている気がした。しかも乾いてかさかさになっていくのではなく、醸され柔らかになるように。言葉がなくても、むしろ言葉少ないからこそ、感じるひとときがある。火や煙りが力添えしてくれたのか。人には思いがある。その思いに、逃げずに真正面から向き合えるなら、たとえどんなに鬱々として悩み多きものだとしても、思いの重みを生の糧へと置き換えることができるだろう。朝になって気づいた。囲炉裏の煙りが屋根裏から外へと流れ出していた。煙突ではなく、逃げていく煙りの通り道があった。流れは、まるで人の思いを乗せているかのように、ゆらゆらと漂い、空へと広がり、やがて消えて行った。此の地に改めて生きようと決めたことも、このままでは里山の未来は危ういと感じることも、おそらくは煙りを吸い込んだ空に届いているのだろう。此の世に生きている片時だけが生きていることではけっしてないだろう。そう想わずにはいられなかった。囲炉裏の傍らに座って向き合った何代もの人々の、今もそのひとつの時代になって行く。
2013年10月22日
ぬくもり村のメリークリスマス
冬のキャンプスタッフ募集!
ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプがこの冬に予定しているプログラムの準備が始まっています。これまではスタ
***
【ぬくもり村のメリークリスマス】
プログラム期間中をクリスマスウィークとして雰囲気たっぷりに遊ぶ、作る、歌う、
◆日程
12月21日(土)〜25日(水) 白峰温泉御前荘コテージ
12月25日(水)〜27日(金) 金沢市キゴ山ふれあいの里
*25日が移動日となります
◆参加募集人数
20人(福島15人、石川5人)
◆必要なスタッフの人数
全日程参加 8人
サポート 参加ご希望のすべてのみなさん
◆主な内容
●雪のツリー、スノーランタン、さらには雪像、雪洞などを作り
◆食事
玄米菜食を取り入れながら、子どもたちには強制せずに徐々に慣
※なお参加者募集は11月中旬ごろを予定しています。
2013年10月20日
疑わしきは被告人の利益に
「疑わしきは被告人の利益に」。裁くのが人間である以上あやまりがあるかも知れない。ひとつのえん罪もあってはならないとする司法のこの大前提がないがしろにされている。再審を認めなかった櫻井龍子裁判長は、その心構えとして「裁判に携わるのは初めてですので,人を裁くことの重さを噛みしめ,自己研鑽に努め,公平で,公正な判断ができるよう心して参りたいと思います。特に社会が大きく変化し,国民の意識も多様化してきていますので,多くの方々の声に耳を傾けながら,ひとつひとつの事件に丁寧に対応し,バランスのとれた判断を積み重ねていくことが大事だと思っています」と就任時に記している。司法の仕組みにある数々の問題を言う前に、裁きの重みを知るはずの裁判官がその自覚をどれほど持っているのだろうかと問いたくなる。
この事件のその後の経緯を扱った映画『約束』を観て以来、死刑囚となった奥西勝さんの心情に度々思いをめぐらすようになった。そのどれほども感じることは叶わないけれど、えん罪に陥れられることはだれにもあることだと確かに感じている。検察官は無罪につながるような不利な証拠は伏せ、有罪を立証するものだけを提出する。裁判官はその証拠を元に判決を下す。これでは真相ではなく罪人を確定することが大事であるかのようだ。司法とは、それに携わる人々は、いったい何を望んでいるのか。
奥西さんの人生を、あるいはえん罪を押し付けられた人生を、もしも自分のものとして経験しなければならなかったら、どんな思いでその日々を生きるだろうか。やり切れない哀しみ、苦しみ……、どんな言葉でも足りない感情があるにちがいない。「疑わしきは被告人の利益に」という絶対のルールさえ守られない世の中にだれもが生きている…
日常の中でも、人が人を疑い、裁くことが当たり前になっている、己を含めて。他を思い遣ることは並大抵のことではない。大方、簡単にそうできる状況で思い遣っているに過ぎないのだろう。えん罪を晴らそうと立ち上がった人たちの尊い意志と人生をも思う。
名張毒ぶどう酒事件:「最後の戦い」敗れる 再審認めず
名張毒ぶどう酒事件・最高裁の棄却決定に思う
裁きの重み 名張毒ぶどう酒事件の半世紀
2013年10月14日
鴻の里 #008 刈る
腰を屈め、拳で握った一束を、片や鋭い歯の鎌で断つ。気を引き締める。たか
だか数日の体験だったが、稲刈りは己とも出会える、静寂の修行のひとときでも
あった。鳥のさえずり、虫が鳴く声を風が運んできた。ゲンゴロウかタガメか昔
見かけた田んぼの虫に再会すると、あの少年がふいに駆け足で飛び出して来た。
そろそろ六十年になろうかという生涯のひと区切りをつけるように、黙々と刈り
つづけた。人間とは実に危うい生き物だ。慣れ出してなにげに鎌を扱っていたの
か、手を切りそうになり、長靴の先をかすめたりした。人生のすべての時間に緊
張を強いることなどできるはずもないけれど、手を抜いたその瞬間に後の日々を
一転させる出来事が起き得る。さらには日常だ。有機栽培だ無農薬だと実しやか
な言葉を並べる前に、身体を動かしてこそ結ぶ実があることを、たとえば田んぼ
が教えてくれた。
2013年10月12日
鴻の里 #007 実り
そばにいて伝わるのは、去年にも増して実りを感じている豊彦さんの身体からあふれ
出す歓びだ。にこやかな笑顔、軽快な動きがそれを物語っている。鴻の里は自然農を目
指している。だがその道はまだ始まったばかり。休耕田だった田んぼを今年は十枚手が
けた。そのひとつひとつが様々な表情を見せて段々に連なっている。ごく普通にとても
田んぼらしいものから、半分以上も占めている草に埋もれて稲穂が顔を出す、刈った後
がまるで荒れ地のような田んぼもある。そのどれもが無農薬で無肥料で耕さないという
共通項を持っている。本などで学んだ知識を大事にする章子さんと、体験重視の豊彦さ
んと、絶妙なコンビかも知れない。なるべく互いに不満を残さないようにしているのか
折にふれて意見をぶつけ合う姿も見られる。それにしても広い棚田にぽつんといる人の
姿には、なんとも言えない魅力がある。爽やかな風のようだ、苦悩も何も脱ぎ捨てた。
鴻の里 #006 里山
だれが言い始めたものか今では里山がすっかり定着した。どこもかしこも里山と呼ばれ
一括りの同じような土地が散在しているようだ。けれども、同じ顔をした町や街と里山と
では大きくちがうものがある。確かに風景は似ているだろう。見かけるのは姿形の似た老
婆が乳母車然としたものを頼りによぼよぼと歩いている様ばかりだったりする。だが、見
つめているとそこには個別の息づかいが感じられる。個々の営みが風景の中に刻まれてい
る。限界集落が、この世の際に見えてくる。眠るように、静かに燃えている。
2013年10月6日
鴻の里 #005 道具
写真と関わりながらカメラという道具に無頓着な面がある。ほとんど手入れをしない
まま使いつづけている。愛着がないのか、それとも物にも人に対しても必要なはずの気
配りに欠けているのか、いずれにしても買い替えるほどの余裕は常にないのだから大事
に使わなければならない。使い込んだ道具を前に、己の至らなさが悲しくなる。これは
何を編んでいたのか、菰、それとも籠。作業が終わらないまま主はこの場に来ることが
できなくなったのか。まるで音が聞こえてきそうだ。手足がめまぐるしく動く様を想っ
てみる。お会いしたことのない方に寄せるひとときは、やがて迎える己の死へとつなが
って行く。存在すること、消えて行くこと、どちらのこともよくわからないけれど、何
か形が遺されていると切なくなるほどに今が愛おしくなる。その頃と変わらないのだろ
うか、この遺された藁の匂い、道具に宿っているこのものたち。大事に使おう。
鴻の里 #004 納屋
不思議の国に迷い込んだらこんな気持ちになるんだろうか。子どもの頃見たアメリカのテレビドラマに「タイムトンネル」というのがあった。いつもブラウン管の世界に入り込み主人公に乗り移ってドキドキしたのを思い出す。納屋に案内されたひととき、あの時と似た興奮に包まれた。あれこれと説明してくれる章子さんの話に、ため息まじりの返事が出るばかり。「おじいちゃんが編んだ縄がそのままになってるんやねえ」と、これが大阪なまりなのか、遠くから能登に嫁に来た章子さんも、知らない遠い昔を思い浮かべていたのかも知れない。その日々の風景が今もそのままに何ひとつ変わらず、佇むように在った。時間が止まっていた。否、流れずに生きているのだ。おそらくは慎重に扱うべきどこかのお宝よりもはるかに、心なのか下腹なのかどしんと感じる重みがあった。小雨の降る一日だというのに、納屋の中はあったかくて程よく乾燥していた。人の営みは止まっていても、この場所はやっぱり生きている、としか思えなかった。時間とは、いったいなんなんだろう。確かに流れてはいる。人も何もが年老いて朽ちてもゆく。けれど、感じているこの不思議はなんだろう。瑞々しいほどに身体にまとわりついてくるものがある。
2013年10月5日
鴻の里 #003 囲炉裏
火を囲むだけで和んでしまうのに、大きな囲炉裏を切ったこの空間に入った途端、思わずため息が出た。足下の板がいくらか軋む音を聞いてぞくっときた。なんという贅沢。その時代の人々がどんな思いで暮らしていたものか知る由もないけれど、この囲炉裏の傍に佇み話し込む人と人を見ながら感じたのは、日本の美しさだったかもしれない。向き合って話すだけならいつだってどこでだってできるだろう。だがその場に、自ずと生まれる静寂はあるだろうか。その静寂を慈しむように味わう瞬間はあるだろうか。人と人が交わる全うな環境が、古い日本には揃っていた。そして今も残している家がある。
2013年10月4日
鴻の里 #002 家
鴻の里について案内された家屋敷に、まず驚いた。豪邸や洒落た建物を見てもほとんど無感動で終わるのが常で建築などには知識もないから興味がわかないんだろうと自分では思っていた。それはこれまでにない不思議な感覚だった。住んでいるのはおそらく鴻さんたちだけではないのだろうと思わずにいられなかった。霊感とかオカルト的なものでなく、感じていたのはおそらく歴史というその場に堆積している時間のことだった。薄汚れて崩れかけた土壁にさえ風格が漂っている。痛んでいるというより、持ちこたえているのだ。聞けば築百三十年という。見ず知らずの何世代ものご先祖の方々を思い浮かべたくなった。生まれてこの世で生きていくことは決して自分ひとりの力では叶わないことを多少なりとも人なら誰もが感じていることだろうが、古い家の前に立つとその意味がいくらかわかったような気がした。代々生命を受け継いできたというだけでなく、人は古より今も脈々と息づいている力に守られているのだろう。鴻さんの家がその表れのひとつなんだと思った。
2013年10月3日
鴻の里 #001 夫婦
鴻さんに出会ってそろそろ三年ほども経つだろうか。はじめは奥さんの章子さんの方だった。「これ、なんて読むんですか?」とおそらく誰もが尋ねるにちがいない、鴻さんたちにとってはお決まりの質問をして、返ってきたのが、びしゃごです、だった。何度も会うことはないだろうと、問い返すのを躊躇い覚えたような顔をしてしまった。せっかく教えてもらったのにその後もなかなか覚えられず、なんとも情けないかぎりだ。それが今では、鴻の里と呼んで何度か訪ねるほどにまでなっている。
この春に出会ったご主人の豊彦さんとは同い年だった。三年前に豊彦さんの生家に住み始めたおふたりは今、自然農に取り組んでいる。「この棚田の風景を残したいんです」との思いを聞いて、同世代として、さらには半農半写真的な暮らしを夢見ている者として、なんとも羨ましい気持ちになった。田舎暮らしは決して生易しいものではないようだが、何が羨ましいと言って、同じ目的に向ってふたりで歩いていることだった。結婚して三十年あまりにもなる今頃になってときどき考えるのは、夫婦について。好いた惚れたの時代などあっと言う間に過ぎ去った。長く連れ添った夫婦にとっての晩年の日々をもしもちがう先を見て暮らすなら、いったいなんのための夫婦なんだろう。などという思いもめぐらしながら、鴻の里通いを続けてみようかと…。
自然農とは、耕さず、肥料や農薬を一切使わず、草や虫を敵としないというもの。とても興味がある。
登録:
投稿 (Atom)