2015年3月11日

小川




 飯舘村は、ほんのひとときぶらぶらしただけで気に入ってしまった。たとえばこんな小川。ありそうで、近ごろは滅多に出合えない。茅で溢れかえる身近な自然、降りて行く土手の傾斜や川幅といい子どものスケールにぴったりだ。田んぼの取水用なんだろうか。その用途など考えることもなく、あの頃の少年は小川を自由気ままに振舞える世界として一日中でも飽かずに過ごした。竹竿があれば川の中ほどをひと突きして向こう岸にまで飛び跳ねた。何度かずぶれになったこともあるけれど、そのまま川底を手や足でまさぐりぬるぬるとした感触を楽しんだのは、いったいなにが目的だったんだろう。ウグイ釣りも懐かしい。子どもの手作りの棹が十分使い物になった。

 今日は3月11日。あれから四年が経った。朝刊の、飯舘村村民へのアンケート結果を読んだ。およそ三割の人が村に戻る希望はあるかとの問いにイエスと答えていた。おそらくは若い世代を中心に帰還はますます考えにくいものになっていくだろうが、老いて行く人々には、この風景の味わいは離れてこそなお深く迫ってくるのではないか。よそ者にさえ、ただならぬ風景だ。

 福島県内に残る人たちの真意を疑う声を一頃よく聞いたものだ。危険な環境から避難するのは当たり前ではないか、子どもたちの健康や未来を最優先すべきだ、などと。だがそれは当事者が一番よく感じていることだろう。いまだに保養プログラムの存在さえ知らずに残って普通に生活している人たちもいるかもしれないけれど、それぞれが選んだ暮らしに対して事情も知らず無闇矢鱈と放言する気にはなれない。放射能の存在を気にしながら、それを毎日忘れることなく注意深く暮らせるほど人間は強くないし、だからと言って、なにもかも諦めて気ままに暮らしているわけではないだろう。

 飯舘村の中に入り半日ほども経った頃、除染の風景から湧き上がった違和感が気がつけば薄らぎ、風景そのものに馴染み出しているのを感じた。汚染された土地に人が戻って欲しいとは思わない。やがて戻る人たちがいたとしてもその行動をとやかく言うつもりにもなれない。土地と人の関係は、それぞれの人生で生きた舞台と主役のそれと同じだろう。どんなことも、選択は生き方、演じ方の問題なのだ。行く川の静かな流れを見つめながら、会ったこともない村の人たちのこれからの気持ちを想像してみた。










2015年3月10日

秘密の原っぱ




 写真の何たるかなどおそよ考えもしないで気ままに日常を撮り続けていたころ、近所の里山に秘密の原っぱと名づけた一画を見つけ、毎日のように通っていた。どこか田舎の小学校の運動場ほどもある広さで、以前は重機まで放置された、言うなれば廃棄物の捨て場のような草地だった。露が降りる朝など寝っ転がってその様子をマクロレンズで覗いては、ただただ感動していた。小さな世界の光り輝く美しさにため息が漏れ、いい年をしてときに涙まで流したり。今から思うとまるでおとぎ話に魅了された少女のようで、こうして書いてみると恥ずかしくさえある。

 飯館村の長泥地区を目指して林道を走っていると、なんとも懐かしい風景に出会い、思わず車を停めた。あの、秘密の原っぱにそっくりな空き地の中をひととき彷徨い歩いた。どこにでもありそうな山あいの、荒れ地。人の営みにとってはどれほどの価値もないかもしれない。だがそこには様々な生命が息づいている。目に見える木々や草花だけでなく、目を凝らしても見つけられない春や夏の野鳥、空中を舞い足下を這う様々な昆虫、地中は名もない微生物たちの住処、もちろん獣たちの山でもある。朝露が連なる蜘蛛の巣などに気づけば、まるで宝石でも拾ったように幸せな気持ちになるだろう。久しぶりの原っぱの感触に浸りながら、どうしてもまた放射能のことに思いが戻った。

 たとえば今の政治家や経済人から、自然、という言葉を聞いた記憶がない。彼らから連想するものは、経済、金、都会、街、電車、便利、コンビニ、デパート、買い物、薬、鬱病などと、上げれば上げるほど気が滅入る。人の暮らしは、もうどうしようもないほど自然からかけ離れている。たまの休みに出かける行楽が関の山。登山が趣味だとしても生活とは別の枠組みにある、それらは一種特別な埋め合わせの時間。身近な自然の中で、しかも身近な生き物たちの領域を冒さない暮らしというものを、いったいいつの頃より失ってしまったんだろうか。

 都会への電力供給という名目で、経済優先の原子力発電所を過疎の村に連ね、挙げ句の果てに愛すべき広範な身近な自然を破壊してしまった。人間には嫌でも仕方なくでも離れる選択があり、だが自然は汚されたまま取り残された。帰還困難区域。なんと身勝手な言葉だろうか。犠牲にあったのは、果たして何と何と何者なんだろうか。










2015年3月9日

ゲート



 帰還困難区域と呼ばれる地区が出来てしまったというのに、時間の経過と共にさもそれが当然かのように聞き流されている気がしないでもない。ゲートの前に立つと、これは悪い冗談ではないのかと思ってしまう。この先には、線量が高いという長泥地区がある、ようだ。人が住めないとはどういうことなのか、なぜそんなことが起こっているのか。わーっと騒いだあと、日本人はなぜこんなに静かになれるのか。自分のこととしても、不思議に思う。里山もここまで深く分け入ると、静かな風景の中で己の内側にも気が向くようになる。

 里から車で10分ほども走っただろうか。ゲートの前に辿り着くと、警備の人がぽつんとひとり立っていた。こちらを発見するや丁寧に頭をさげ、Uターンを指示した。降りてゆっくりと近寄る。「写真を撮らせてください」。旗やなにやらを移動して場所を空けてくれた。真正面から一枚だけ撮り、あなたの姿も撮らせてほしいと頼んでみた。「それはできません」と即答するマスク越の小さな声が聞こえた。放射能で汚され立ち入りできない地域の前で、一日中立っているのだと言う。仕事とは言え、他人事とは言え、なんともやり切れない気持ちになった。この状況は尋常ではないだろう。この状況に深く起因している人々は、果たしてどんな気持ちを抱いているのだろう。不思議でならない。帰還困難区域を設け、何かを解決した気持ちにでもなっているのではないか。帰還困難区域を作ってしまったことに、だれもなんの責任も取らない、取れそうにない。










2015年3月8日

日本で最も美しい村







 放射能被害が明るみに出るにつれ取り上げられるようになった飯舘村を調べているうち、「日本で最も美しい村」が全国各地にあることを知った。飯舘村もその連合の一員として、経済発展ばかりを掲げる国の方針などに頼らず独自の道をこつこつと歩んでいたにちがいない。その頃に「までい」という言葉もよく見聞きしたものだ。ネット上にこんな記事を見つけた。

 私たちは、親や年寄りから「食い物はまでいに(大切に)食えよ」「子供はまでいに(丁寧に)育てろよ」「仕事はまでいに(しっかりした・丁寧に)しろよ」と教えられてきました。手間隙を惜しまず、丁寧に、心をこめて、時間をかけて、じっくりと、そんな心が「までい」にはこめられているのです。

 飯舘村に入るとまでいが生きていた四年前の雰囲気が、今もそのまま残っているような気がした。見える風景は、住んでいる人がほとんどいないのだから、当然だが殺伐としていた。南相馬から県道12号線で八木沢峠を越えて入ると、道沿いの家にも畑にも人影はなく、降りてうろうろ徘徊することが憚られるほどに静かだった。田んぼはつんつん草で覆われていた。これが生えてくると厄介なんだと、すべて抜き取る作業に精を出したのは二年前に手伝った輪島の鴻の里でだった。飯館の田んぼは人にとって厄介なものの安住の地になっている。だが土地とそこに住んだ人の気とは凄まじいものだ。おそらく絶えることがないのではないか。野良仕事の声や笑顔が想像できた。

 日本で最も美しい村連合のサイトを探しても、飯舘村の名前はもう見当たらなかった。放射能汚染がこの村のすべてを奪い去った。あちこちで見かける大規模な除染作業でその場の線量はいくらかでも低下するだろうが、のびやかに広がる山並みを望みながら感じたのは、人間の愚かさばかりだった。村を愛した人たちはいまどこでどうしているんだろう。仮設住宅、避難という言葉は、他県の者には現実味が感じられなかったけれど、村に一歩踏み入り一軒の空き家を前に佇んでいると、その意味が言葉もなく急に押し寄せ、胸を圧した。

 日本で最も美しい村の人たちは、今も各地で静かな営みを続けているだろうか。営みは、当たり前に与えられるものではなかったことを、飯館村が教えている。までいに暮らせよ、と。










2015年3月7日

日常




 FKキッズ交流キャンプに何度も参加しているたとえばユウタはまだ一年生で、初めて出合ったのが三年前の冬、この間に成長する姿を間近で見守ることができた。この年頃の変化はとても著しい。どこか赤ん坊の雰囲気さえ漂っていた子が今では芯のある言葉を発したりしてハッとさせてくれる。非日常のキャンプと、この頃は気軽にお邪魔するようになった福島市の日常の様子とで、ますます身近な間柄になっている。ユウタの未来にいくらかでも参加していることに気づくと、福島原発事故がもたらしただろう数ある希有な出合いのひとつを経験している不思議と、その陰に秘かに隠れている責任のようなものを感じる。親ではないおとなの話に、子どもたちは真剣に耳を傾けていることを決して忘れてはならない。

 今でもときどき思い出すのは、あの冬のキャンプが定員を大幅に上回り、なんと四十人を越える参加者を招いたことだ。その最後の最後がユウタとおかあさんのヤスコさんだった。「ぜったいに参加したいんです。ズルしてもいいから入れてください」という電話での申し込みだった。面白い人だと思った。人の気持ちは、人へと乗り移るものなんだろう。ほかにも数ある保養プログラムの中でFKを選んでくれるという意味を考えることはなかったけれど、あのヤスコさんの子を思う親心が今の関係を創り出すきっかけになったことだけは確かだ。

 朝が苦手なユウタと、ユウタを追い立てるように行動を促すヤスコさんとのやりとりは、まるでホームドラマのようにしてどうやら毎日繰り返されている。放射能問題はこの国の非常事態ではあるけれど、日常は、ここでもほかのどの町の日常とも変わらず常に営まれている。大事な日常のために、キャンプなどの非日常があるのかもしれない。放射能問題にはできるかぎり注視しながら、大事なものは日常でこそ育む。人の営みというものは、いつも変わることがない。

 巨大な津波と原発事故が、愛すべき数々の日常を奪い、今も奪い続けている。福島の子どもたちと共に過ごしながら、だからそれを忘れたことがない。陰に隠れている責任とは、忘れないでいることかもしれない。どんな事態に陥ろうが、常に前を向いて日常を営みながら。











 

2015年3月6日

FKキッズ




 福島の子どもたちが放射能問題から少しでも離れることができるようにと、今も全国各地で保養プログラムなるものが開かれ、その気持ちのある保護者のみなさんがかわいい我が子を手元から離し参加させている。そんなプログラムのひとつ、「ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ」にかかわるようになり、これで有に百人を越える子どもたちと出会っている。ふくしまのF、かなざわのKが交流するから、FKキッズと呼んで、今ではまるで親戚のおじさんのような気持ちでいる。何回も参加している子にはとくに、キャンプ以外でも会いたいと思う。福島市で開かれた保養プログラムの相談会に出たついでに、福島の今を見ておくつもりで県内を駆け回った。いわきに入ったのが折しも下校時間に近いころで、もしかすると合えるかもしれないと儚い思いを抱いて、十人ものFKキッズが通う中学校へ向った。全員女の子だ。FKが初めて開いた夏のキャンプに四人、そのあとの冬にいきなり十人がやってきた。彼女たちとの出会いがなければ、FKはこうまで続かなかったかもしれない。それがおとなでもこどもでも、出会いがもたらす妙というものを感じないではいられない。

 校門から大勢の中学生があふれ出てきた。黄色い旗を持ち、さようなら、さようならとひとりひとりに声を掛けているおとなはおそらく先生だろうと、生徒の写真を撮る承諾を得るため近寄った。「教頭の許可を得てください。この頃はぶっそうな世の中ですから」との返事に、そうだよな、面倒な世の中になったものだと、時間を割いてみたが甲斐なく断られ立ち戻った。その数分間にお目当てのFKキッズが流れ出たものか、そろそろあきらめようかというころになって、ひとり、懐かしい顔が現れた。「やっ!」と近寄る。びっくりするのは当然だが、その後の会話がぎこちなく、続かない。親しい気持ちはあるけれど、思い出深い石川でのキャンプならまだしも、日常にいきなりでは馴染めないのもまた当然か。途切れがちに言葉を交わし、せめてものことにと、中学生になった姿を撮らせてもらった。

 ナナは落ち着いた子だ。真っすぐにカメラを見つめ返している。まだ撮り慣れていないローライフレックスを確認しながらゆっくりと操作し、無言で対話するようにピントグラスを覗いた。ほんの短い時間だったが、過ぎてしまうのがもったいないほど豊かな気持ちになった。日本中に大勢の子どもたちがいても、ほとんど出会うことなくそれぞれの人生は終わる。原発事故が起きてしまったがために出会った仲だと思うと、この一枚の写真がいつかおかあさんになった頃にでも改めて見直すときのために、丁寧にプリントして残しておきたい。老いながらも写真家を志す飽くなき者がキャンプの主催者でもあるのだ。子どもたちの素の姿を撮りたいと、ようやく思いはじめている。