2020年10月22日

白山にて、星々とともに


 
 朝まだきの公園などで気功しながら過ごすようになり、晴れた日は星々を仰ぎ見る楽しみが生まれた。これはまさしく、実に楽しく、愉快でさえある。高齢者の仲間入りをする世代になるまで知っていたのは北斗七星やオリオン座ぐらいで、最近これにようやくシリウスが加わり、その名前を口にして手を合わせてみたり、向き合って練功したり、まるで懐かしい旧知の友に出会ったような小さな感動を味わっている。星々と語らう、と言ってももちろん一方的な会話でそれも実際に声を発するわけではないから、語らうというのは当たらないかもしれないけれど、二時間あまりも星空の下で過ごす気分はやはり語らうが近い。

 先日、千葉の友と二人で白山は南竜ケ馬場に泊まった折、ボランティアとして山小屋を閉じる作業に当たっていた男性がご親切にも星の撮り方を教えてくれ、改めてカメラを据え、早速そのように撮ってみた。ISO感度は800、絞りf3,5、露光時間は10秒だったか15秒。確かに天の川まで綺麗に写り、若干の補正を加えて上の写真ができあがった。

 下の写真は、その前に自己流で撮っていた一枚。ISO感度は400、絞りf8、露光時間は10分ほど。カメラや三脚以外の便利な小道具は持たないので、レリーズボタンを人差し指で押さえたまま動かずにじっと星空を眺めていた。人の目に止まっている天体は、実はこうして北極星の周りをぐるぐると廻って動いていることを、誰もが何かで見聞きして知っているわけで、それでもとても不思議な気分になるのはなぜだろう。星々のこと、ましてや宇宙のこと、それに地球のことにしても、まだまだ人間の力では到底及ばない世界が広大に、それこそ無限に広がっている。不思議で当たり前、なぜ毎夜変わらずに星は運行しているのか、それも何億光年も前に発せられた光を目の当たりにしているなんて、いくら想像してみても、不思議でたまらない。




 星々とともに過ごすひとときを持つようになり、大きく変わったことが一つある。心の中の見えない変化だから実証のしようがない分、この内側で感じ取れる領域の広がりは日中にまで残り、やがては再び訪れる夜にも、つまりは連日連夜の変化ということになり、もはや変化というより、これが人間という存在なのかもしれないと、星々が教えてくれたような気にもなる。

 何をやっても中途半端で、何を描いても決して最後まで到達しない、このまま実にいい加減な人間で終わりそうだと、自分でも分かるようになった。それでも気功ぐらいは死ぬまで続けよう。そうして星々を仰ぎ見ることは、星々に見守られていることでもあるのか、内側で広がるものの一つは、どうやら安心、というものかもしれない。それもかなりスケール感のある安心で、雑然と繰り返しているばかりの日常の営みをも悠然と、優しく包み込んでくれる。

 『風の旅人』を編まれた佐伯剛さんがシェアしていた日野啓三『書くことの秘儀』の一文を改めて読み、この広がりもまた、真似事でいいから、その一つであってほしいものだと感じ入る。

 「聖なるものは天国でも神でもなく、生命の根源の力に根ざしながら、いつでもどこでも、相対的でしかないこの現実を超える世界を思考し幻想し志向しようとする、われわれ自身の魂の運動そのものなのだから。」















 

2020年3月7日

種






 カメラマンのかたわら一年半はたらいた職場の様子を撮影することになり、この数日、数カ所の事業所をまわってメンバーのみなさんの仕事風景を間近で見つめた。就労継続支援事業のなんたるかも知らず飛び込んだ世界は、障害とともにある利用者が働く場で、スタッフはその指導などサポートをする立場、ところが手慣れたベテランもいれば、この場に来るまでに豊かな経験を積んだ人も多く、年齢も資質も様々、支援するなどとお世辞にも言えないこの凡夫は教わることの方がずっと多い日々だった。

 撮影の最後は、水耕栽培施設。すっかり仲良くなったメンバーたちと二時間あまり過ごし、いつものように丁寧にそして常に一所懸命取り組む姿を角度を変えてたくさん撮った。これは仕事というより、彼らに贈ることができる最後のプレゼントのつもりで、だからささやきかけるように撮りながら、心の交流をも楽しんだ。

 葉野菜が育つ大きな温室はほどよい温度と湿度に調整され、空気も雰囲気もとても穏やか、小さな種を蒔いたり、生育に合わせて植え替えしたり、大地に代わる発泡スチールを洗ったり、どの作業でも微笑みを浮かべているように静かな姿を見ていると、仕事というより、たぶん意識などせずとも植物と和やかに交流しているんだろうと思えた。

 普段はホテルのバスルームを清掃する施設外就労のスタッフとして出ることが多く、施設内で内職的な仕事に従事するみなさんとはほとんど一緒にいる機会がなかった、という関係でも、そこはカメラが本領発揮、穏やかな場の気も手伝って、愛くるしい表情や仕草を何枚もとらえることができた。あっちゃんがこんなにも可愛いまなざしで微笑むなんて、せいや君がこんなにまで透明なまなざしで見つめていたなんて、ファインダー越しで初めて気づくようなそれぞれの表情に出会い、本当にみんなのことが大好きなんだなあと信じられた。

 この就労継続支援のA型事業所は一般就労への橋渡しが一つの大きな役割で、利用者のみなさんはそれぞれの状況や調子を見ながら経験を積み、事業所は当然のごとく効率や収益を重要視している。パートタイマーのスタッフには、ことにずっとフリーで気ままにやってきな者には、どうにも息のつまる場面が多く、何かを改善する力もなく立場でもないくせに憤りだけ抱えこんでしまう好ましくない心持ちになってしまったものの、笑ってほんのちょっぴりでも会話し、時には肩を揉んであげたり、調子はどう?と小声でささやきあったり、そんなふうにみんなと居ることはほかのどこにもない幸せを感じるひとときだったんだと、今になって痛いほどに感じている。

 蒔いた小さな種が芽吹くときに湧きあがるなんとも言えない幸せな気分と、これはとてもよく似ている。人の心の中にはきっといろんな種が宿っている。ともに過ごす場が調い心と心を交わすとき、その種は微笑みとなり歌や踊りにもなり、目に見える形で外へと表れる。これこそ人にある、優れた生き物としての、表現というものではないのか。水耕栽培施設から戻っての休憩時間、微笑みを交わし合う間柄になれたなのか、あっちゃんがゆらゆら揺れて天にも昇るように踊って、また微笑んでいる。年甲斐もなくなんだかその大きな体に抱きつきたい気分になった。

 ありがたいなあ、みんなが教えてくれた、この幸せ気分、ほんの少しでも真似して天使みたいに微笑むじじいになっていけるだろうか。

 場はとても大事だ。働く場であろうとどこであろうと、種を育むことを最大の使命とする。

















2019年9月12日

十年目のプレゼント



 何人かの親しい仲間が共同で贈り物をする話はよくあるだろうが、その贈り物が結婚祝いの記念の無料撮影券というのは滅多になさそうだ。ましてご指名を受けたカメラマンとなり、撮影料として三万円をすでにいただき、それが十年も前のこととで、いい歳をした頃合いになると、このまま撮らずに終わるのではと気になって仕方がなかった。モデルの友人に折にふれ催促し、ようやく実現。まるで夢がかなったかのような気分で、撮る方も撮られる方も、幸せな半日を過ごすことができた。

 十年ひと昔とはよく言ったもの、写真の環境を見ても隔世の感がある。今の気分からするとフィルムを詰めたローライでじっくり向き合っても良さそうなところだが、仕上がりはネットを介して作るアルバムとして設定し、お二人の希望にそったロケーションで、いろんな表情をパチリパチリとデジカメで何枚も撮った。撮影がどんな風になるのか想像もつかず気になるのはモデルとして当然のこと、抱えていたちょっぴりの不安を思いっきりよく裏切ることができたようで、最終的に手にするアルバムそのものはもちろん一番の楽しみ、さらに撮られる経験もプレゼントとなるようなひとときにしたかった、というわけだ。

 三十度を軽く超えた折からの残暑、二人とも汗びっしょり、それも十年の歩みがあるせいかどんなことも全てが味になるような気がした。別れ際に思いついて、十年を振り返った今の気持ちやお互いへのメッセージを書いてみたらと提案すると、忙しい僧侶の友人は一瞬戸惑いながらも、年内完成なら行けるかも、と承諾してくれた。想像するだけで、なんとも幸せな気分になる。この機会をプレゼントしてくれた福井の友人たちに感謝したいのは、むしろこのカメラマンの方かもしれない。この撮影が当時すぐに行われたなら、到底この展開にはならなかった。せいぜいが二、三枚の写真を台紙に貼るか額装するに過ぎなかっただろうか。これならもう三十万円ほどの価値、十年待った甲斐がある。

 それにしてもこの写真、お二人の今を表しているようで、実に興味深い。日が傾き出し、夫人のふるさとでもある越前の海がキラキラと輝いていた。ここがいいと車を止め、最後のシーンとして収めることができた。気功や整体にも精通している友人は、ちょこんと腰が引けて、それが丹田に力がこもっている姿勢にも見える。朴訥な人柄に惹かれたに違いない、なんとも幸せそうだ。










2019年5月2日

遺影写真を撮ります


今年は、いよいよと言うのか、待ちに待ったとでも言ってしまいたいくらいの、高齢者の部類に組み込まれる世代となり、単に年を食っただけの話でも、なぜかその資格を得たような気分で、念願かなって遺影写真家を名乗ることにした。温泉旅館の広告撮影や昨年からパートタイマーとして始めた就労継続支援事業のスタッフの立場があり、おまけに趣味程度の野良仕事に、何がしかのもの書くという夢までたずさえており、これでもかとういうほどごった煮状態の日常にあって果たして遺影写真の専門家になれるものか、我がごとながらふらふらと宙ぶらりんな残生を、今日までと同様に歩くことになりそうだ。
 
 掲載のこの一枚の写真を撮らせていただいたあの瞬間に、遺影写真という分野が明確に目の前に現れた。当時の日記にその思いが滲んでいる。

 「いつの日か遺影写真を撮りたいと思うようになって随分と経ってしまったのは、命の何たるかを知らないで到底撮れるものではないと思っていたから。その心の重い扉を開けてくださったのが、この渡部さんだった。建具屋の三代目として生涯家業を営まれた。ご子息の結婚式を撮影した翌朝、撮らせてもらいたいと胸の鼓動を抑えて願い出た。ああ、いいですよ、意外にも軽く答えられるや、ゆっくりとパジャマの上着を脱がれた。ベッドの上で過ごす時間が一日の大半を占めているようで、弱々しい老人の姿を前に、撮りたいと思ったはずの気持ちなど跡形もなく消えてしまった。
 撮影前のほんの数秒間、目と目を合わせた。いきなりファインダーを覗くなど無礼なことだと無意識にでも感じたのかもしれない。老いとはどうやら枯れて行くもののようだ、なのに、あの瞳の奥で鋭く、しかもほのぼのと光るものはいったい何だったのか。フィンダーの中の渡部さんがこの小心者を圧倒し、睨まれた蛙のように、心にもレリーズボタンを押す手にも緊張が走った。職人の魂などと簡単な一言をしたり顔で使うわけにも行かず、長い年月を歩いて来られた果てのその最晩年に出会っているという、ただただ静かな感動に包まれた。」

 あの日から六年ほども経った。だから、ようやく、いよいよという気持ちになっているのかも知れない。相変わらず、命の何たるかなど知る由もなく、職人にも、写真家にも、ついには結局一人前の人間にはなれず、このまま終わることはほぼまちがいなく、切羽詰まって動き出すしかないというのが本音というところだろうか。

 まあ、いいさ。人間に完成や完熟があるとも思えない。

 同じ頃、おやじについても書いていた。

 
「定年退職後に関連会社の社長職に納まり、仕事一筋と言えば聞こえは良いが、本当に仕事上のつきあいしかなかったようで、今では日がな一日テレビの前に座りつづけ、まるで切り株のような人になっている。それで何の苦痛もな不平不満もないらしく、これが意識してのことならまさに覚醒した人に思える。
 昔話を聞いておきたいからと、おやじと最後に飲みに出かけたのはもう何年も前、今ほどの物忘れもなく、いろんな話をしてくれた。軍隊に志願したのは少しでも人の上に立つため、と言いながら伍長止まりで、時折差別的な呼称で隣国を呼んでいたのを思い出す、極々普通のどこにでもいそうなありふれた日本人だった。
 県の職員時代に汚職の前科があった。その顛末を聞いておくのは息子の務めだとも思った。『なあに、あれは業者に呼ばれビールを一杯飲んだだけ。あん時の上役が行けと言うから行ったまで、まったく馬鹿な話や、新聞はあらぬことを書き立てたしなあ。』どこか懐かしそうに話したおやじの言葉を息子は信じるつもりだ。世の中の動きなどに何の疑問も感じない、愚直で馬鹿正直な人だったのか、せめてこの世に一人ぐらいそれを誇りに思う人がいていいはずだ。
 たまにレンズを向けると、小さくはにかんでみせる。撮る撮られることを通した、これも父子の会話だろうか。」

 その父も、昨夏天へと召されて逝かれた。死者ともなれば、生前には思いもつかなかった敬う気持ちに包まれる。遺影写真にするつもりで撮った縁側での写真が親戚連中に妙に評判が良く、毎日恩着せがましく眺めては、話しかけている。

 写真の力の一つはその記録性にあるが、静止した画像の中から浮かび上がる実に様々な思いがますます見つめる者の想像力を膨らませ、あの世でもこの世でもない、その間(あわい)を埋めるような不可思議な力こそ、唯一最大のものではないだろうか。ことに、遺影写真というより、食卓で何気に撮ったこの一枚のような、生きていることに、ましてや撮られていることなどにまったく頓着しない瞬間に、ああ、あの父がいるような気がしてしようがない。

 どうせなら、撮るために出かける遺影写真の撮影場所でも、お互いに生きていることからほんの少しでも離れられるような時間を過ごしてみたいもの。

 何のために生まれてきたんだろう、死までの刹那、宇宙の営みからすればまさに閃光でしかない塵のような日々の中に、溢れるほどの思い出が詰まっているなんて、夢だろうか、ほんとうに夢、なのかも知れない。


遺影写真館 言の葉とともに
https://kazesan63.wixsite.com/iei-kotonoha










2019年1月1日

巫女の舞


巫女になった孫娘の鈴のお祓いを
何度も浴びて、今日この日から
何ひとつ怖れることなく
安心して暮らそうと決めた元日。










2018年12月29日

清浄な人

 タイはチェンマイ、ラオスはルアンパバーンでひとときを過ごし、インドシナ半島に俄然興味が湧いてきた。それも都会ではなく、USATOの生地を生産する村々のような素朴な土地を何年もかけて歩いてみたい、などと金ももはや残された時間も乏しいくせに、せめて夢として抱えることにした。
 その南国から帰って翌日、早速もう一つの仕事に従事、就労継続支援事業のスタッフとしてホテルのバストイレ清掃に取り組んだ。この仕事は単純作業の一つだろうか、慣れてくると様々な思いがい浮かんで実に豊かな時間になる。洗面台を磨き、コップを洗い、バスタブをこすり、トイレの隅々に目を配るうち、滞在した羽田やラオスのホテル、USATOのゲストハウスの同じスペースの清掃具合を思い出す。
 部屋の清掃は、それに打ち込んでみると、見た目に綺麗というだけでは足りないのかもしれない。一見しただけでは気づかない、たとえば鏡や床の隅、敷居に当たるステンレスやガラス扉にこびりついた水垢、トイレの蓋の裏、排水溝の網の目、点検する箇所は小さなスペースといえどあれこれとあり、そのどれもが完璧に美しくなる時、清掃したのではなく、浄化と言っていいような気がするほどに満ち足りる。
 それでまた思い出したのが、ルアンパバーン郡のある村、あれは公民館のような建物でそのトイレの簡素な作りと、水で満たされた小さな風呂桶のような囲い。排泄した汚物を囲いの中の水を桶で汲んで流すだけ、床もスリッパも半ば水浸し、どうにも綺麗とは言い難かったが、けれど慣れれば多分これ以上何も必要のない美しさがあったのかもしれない。水浸しと思ったのは足が濡れる不快感を避けるためだろうが、村の誰もがみな裸足で草履、上り框の下には厚い布製のマットがあり、何不自由もなく部屋に入って行けるわけで、南国の自然に合わせた自ずからの清らかなつながりあると言えなくもない。
 人の暮らしは、文明開化のなれの果てにたどり着いた贅沢な家や環境にあるのだろうか。清める、浄めるという観点が清浄ではない状態をそう為らしめるためにあるとすれば、手を下さなくても清らかな環境をさらにほんの少しの心配りで整えることができるなら、それをこそ人としての美しさと言いたい。
 清掃は汚れを取り除くだけの話で、清掃しなければ追いつかない過剰な文化からは遠く、清濁を併せ持ちその中で営む暮らしと、それを暮らす村人の純朴な微笑みにふれるとき、現代はとてつもなく大事なものを失ってしまったのではないか、などとつい思ってしまう。
 あの村この村の清浄な人々の笑顔がまた浮かんでくる。人としての大事なものを意識することなく抱えているようなあの笑顔が。










2018年11月4日

父と母の手で




 明日九十二歳を迎えるはずだった親父の遺影の前で過ごす短いひとときが、この頃もっとも大事にしている日課になった。生きている間はほとんど関心のなかった父という存在が日毎に重みを増してゆくようで、死者との語らいというほどではないけれど、きっとこの先も戸惑い多き愚息を導いてくれるような気がして、根拠もなく大いなる安心感に包まれている。

 結局一月半の入院生活の果てに、肺炎を患い、あっけなく天へと召されて逝かれた。膀胱癌のために施した放射線治療など受けずに家でのんびり暮らしていた方が、親父にとってどんなにか快適だったろうにと悔やまれる。あれこれ整えた介護生活の準備が全て不要になり、いくら毎日病室を訪ね見舞ったとしても、家族として何もできなかったことを省み、それが人間には普通にあることなんだろうと思ってしまう哀しみを抱き続けてもいる。

 ことさら意識していたわけでもなかったが、最後の時を過ごす父と母が二人並んだ姿を何度か撮った。死というものがほんのすぐそこにあり、なのに死別したあとのことなどちっとも想像できないまま、ファインダーを覗き込み、この二人の間に生まれ育てられたことをたまゆら思い出し、今こうして身の回りのすべてがゆっくりと終わってゆくのかと、心でため息をつきつき、それでいて軽口ばかり叩く自分がなんとも情けなかった。

 亡くなる十日ほど前、二人の手を重ねて撮らせてもらった。どちらもシワとシミだらけの手が歩んだささやかな歴史を表しているとしたら、きっとお袋はこの写真をもっとも気に入ってくれるにちがいない。年齢の割りは驚くほど骨が丈夫だったんですねと、火葬場の係が漏らした言葉で、よろよろしながらも最後までしゃんとしていた姿が鮮やかに蘇った。それをわずか十九で嫁いだお袋が、やがては文句ばかりこぼしては細やかに支えてきたということになる。

 ねんねがねんねを抱いとるわいと茶化されたという母の背中のその息子も、早耳順。どこにでもある親子でも、ここだけにしかないことが、今はよく感じられる。同居する家族の誰か一人が亡くなってはじめて感じているこの味わいを言葉にしてみたい気もするが、どうにも格好ばかりつけることになりそうで、今はやめておく。けれど、いつかちゃんと言葉にして残しておきたい。

 先日、夫を亡くして八年になる娘がメールで送ってきた言葉をまた思い出す。「おとうさん、人生訓を垂れるのもうやめて。私は私の経験を頼りに生きていく。」何を偉そうにとも思ったが、自分の頭と言葉で考え行動する人になってほしいものだと心がけて見守った子供たちが、しかとそうなっているわけで、むしろまことに喜ぶべきことのようだ。

 言葉で表すことを大事に、けれど、極寒の中でゆっくりと醸造する酒のように何度でも身の内で練り直し、天と地のこのあわいを想像し、今はそこで静かにたゆたっていたい。とても身近になった親父とともに、人生訓などでない、もっとも個人的な作業として。ありがたいことに、好きじゃなかったお袋が、なんだかどうにも愛おしくなってきた。











 

2018年7月31日

だんまりと




 父と息子という間柄をこんなにも意識したことは、互いにそれなりに長い人生を生きながらこれまで一度もなかったような気がする。「よく似てますねえ、そっくりやわ」と中堅どころの看護師が呆れて感心するほど、どうやら側から見ると生き写しというやつのようだ。おやじと一緒にされることを拒む気持ちはないけれど、でも中身は大きくちがうのだと、ずっと思い続けてきたかもしれない。あれこれと考える人を装う息子と、何一つにも関心を示さず、ただ息をして、食べて寝転んでいるようなおやじと。

 軍隊へは自ら志願して入ったと、見合いをする前の青年の話を母がしてくれたことがある。なんでもその方が少しでも出世するだろうと思ってのことだったらしく、伍長という地位に付いた。下には二等兵と一等兵がいたことになるのか、大正15年生まれを誇りにするような妙なところがある、当時の若造がどんな顔して振舞っていたのやら想像もつかない。いよいよ戦地へ派兵されるという直前に敗戦、まだ19歳の頃だ。いつだったかテレビの映像を見ながら“チョンコロ”という言葉をおやじが発した。差別だと知らない無邪気なだけの子供でも、なんとなく嫌な気分になったのを覚えている。戦争そのものをどう考えていたんだろう。期待する答えが返ってくるとは思えないけれど、忘れたわい、なんも覚えとらん、としか言わない今では何もかもが遅すぎる。

 おやじに膀胱癌の診断がくだって以来、人は衰えて当然と眺めているだけだった息子の気持ちにちょっぴり変化が生じ、近所へと花見に連れ出した。おお、きれいやなあと、一言だけ。あとはだんまり、桜花を見ているのか、それとも空でも見上げているのか、親子でもよく分からないことばかりなのは、気持ちも会話もずっと交わしてこなかったつけが回ってきたということか。せめてものことにと、ようやく使い慣れてきた二眼レフのファインダー越しに、こちらも黙っておやじを見つめた。

 本当は生まれ育った小松の街やよく遊んだという梯川のほとりを歩いてもよかったのに、もう少しあったかくなってからと日延べしているうちに、いつしかその気が薄れ、血尿が止まらず貧血でよろよろし出したのを潮時に入院生活と相成った。何事も自然な成り行きに任せようぐらいな息子は、老化も死も、だれにだって訪れる当たり前な姿だと分かり切っているはずが、病んでいる本人に確たる意思を感じず——と思い込んでいるだけなのかもしれないがと、これを書きながら一瞬不安にもなり——いろいろに迷い、結局医者が奨める放射線治療を癌が膀胱の半分にもなった今さら選択した。

 その責任を感じているのか、そうせずにはいられない、まるで強迫観念に背中を押されるようにして毎日病室を訪ね、互いに耳が遠いこともあって相変わらず大した会話もなく、だんまりと、ほかにすることもないのでしばらく肩や背中をほぐしてやるばかり。気持ちがいいともなんとも言わず、終わると、あんやとと軽く頭を下げる。それだけのことが二週間あまり続いている。

 ベッドの横のポータブルトイレに物憂げに座りこむおやじが窓からの仄かな光に浮かび上がる。さながら考える人のようでもあり、代わりにおもむろにベッドに移り、一枚そっと収める。こんな時の二眼レフは、シャッター音さえほとんど感じずに済み、ミラーアップもないから撮る瞬間もおやじの様子を見ていられる、実にいいカメラだ。痛ましいおやじの中に、彫像のごとき厳然とした力が隠れているような、気がした。

 戦争にしても役所勤めで強いられたという収賄の前科一犯にしても、おやじが生きた日々に果たして思考はあったのか、大きなもの、たとえば権力を疑うということはなかったのか、結局長いものに巻かれただけなのでは、などと無責任に思いめぐらすことがある。そしていつも、このおやじがいて、この息子の人生もあったという一点にたどり着く。お互いのちっぽけな人間としての存在と日々、今もその一コマとして向き合っている。これにまだ迷い多き我が息子がいて、わずか三代ばかりの系図とも言えないちっぽけな繋がりのあれやこれやが何事もなかったかのように、果てしなく、あるいはいつしか途絶えてしまう、だけなんだろうか。

 とにかく不思議にも、片時も休まずおやじのことを思っている。半時ほど過ごす病室でより、離れてこそより深く味わうように感じている。これがもしも、どんな人生でもそれを終えてゆく最後の過程にある何か大事なものの一つだとしたら。父と息子の、どちらが先に逝くのか、決してわかったものでもないけれど。










2018年1月17日

葛藤という関係


 Twtterで見かけて思い出し、書棚の奥から引っ張り出した石川達三『生きてゐる兵隊』。四十年も前の学生時代、アパートの近くにあって何度か覗いた小さな古本屋、確かあてがわれただけの読みもしない写真の教本を売り払い、興味本位で代わりに買った。敗戦間もない昭和二十年十二月発行、定價が四圓五十錢、河出書房の自由新書とある。小口や扉には中村姓のスタンプがやや擦れて見え、触れるのを躊躇してしまうほどに黄ばんで所々に染みが浮かび、小冊子ほどの体裁の割にはさもこの家にも古書があるのだと言いたげな顔をしていた。読み始めてどうやらこれが初めての出会いだと分かった。生きている間に気がついてよかったなあと、まさかのタブレットの世の中で、慈しむような気持ちを抱いて、年の瀬の数日、静かに読み進めた。

 著者が中央公論社の特派員として中国大陸に赴いたのは昭和十三(1938)年一月、南京事件に関与したといわれる第十六師団三十三連隊に取材し著したのがこの小説で、同年三月、中央公論に発表されるや、無防備な市民や女性を殺害する描写、兵隊自身の戦争に対する悲観などを含む四分の一が伏字削除されたにもかかわらず、「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」などとして、掲載誌は即日発売禁止の処分。執筆者、編集者、発行者の三者は新聞紙法第四十一条(安寧秩序紊乱)の容疑で起訴され、著者は禁固四か月、執行猶予三年の判決を受けた。(ウィキペディアより) 開いてすぐの「誌」は、「この作品が原文のまゝで刊行される日があろうとは」ではじまり、発刊に到るまでの経緯と筆禍を蒙った著者の感慨が、自らにもささやくように綴られている。

 「この作品によって刑罰を受けるなどとは豫想もし得なかつた。若氣の至りであつたかも知れない。たゞ私としては、あるがまゝの戦争の姿を知らせることによつて、勝利に傲つた銃後の人々に大きな反省を求めようといふつもりであったが、このやうな私の意圖は葬られた。そして言論の自由を失つた銃後は官民ともに亂れに紊れて遂に國家の悲運を眼のあたりに見ることになつた。今さらながら口惜しい氣もするのである。」

 だが読後に感じたのは、これがあるがままの戦争の姿なんだろうか、というある種の疑問だった。確かに罪もない庶民が虫けらのように残虐に、しかもあっさりと殺され、けれどどこか坦々として描かれているのが不思議な気がして、大きな戸惑いとなったその思いを抱えて読むことになった。末尾の「附記」には、「本稿は實戰の忠實な記録ではなく、作者のかなり自由な創作を試みたものであり‥‥」とある。どこまでが事実で、どこからが創作なのか、小説とはそういうものだと言われれば頷くしかない。この一言で、あるがままの姿を迫真という表層に収めることも可能になり、曖昧だ、とつい感じてしまうことにもなるけれど。そう言えば、抑制を利かせることは小説を書く上の重要なポイントであることを一年ばかり学んだ丸山謙二塾で知ったばかり。

 南京が陥落したのは、著者が南京入りするわずか二週間前の昭和十二(1937)年十二月十二日。ウィキペディアの『生きてゐる兵隊』の項に興味深い記述がある。著者は「入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき、街上は死体累々大変なものだった」と自らが見聞した虐殺現場の様子を詳細に語っている一方で、「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」とも。今さら仔細の分かるはずもなく、そして物語の中で大虐殺は一文も触れられていない。

 金沢で自主上映された『南京!南京!』という映画を観たのもこの十二月。小説とは大きくちがい、ひとり監督個人に留まらず役者はもちろん様々な役割を担う大勢の人が関わっている。公式サイトを見回して、映画作品をなすための複雑さにたじろぎ、観た感想をここに一言で書き留めることを躊躇ってしまう。

 映画はもちろん演劇や小説など、題材が戦争ともなると今は実体験に基づくものは限られている。『南京!南京!』では、監督と役者が日本兵の葛藤を表すための演技や台詞をせめぎ合うように検討したことが記されている。たとえ架空の人物のものだとしても他者の経験の、それも微妙に揺れる内面を表現する難易度の高さは容易に想像できる。だからこそ、葛藤している姿は描けても、全体何にどんな風に苦悩しているのかという核心となる具象を感じられないもどかしがついて回った。それは『生きてゐる兵隊』でも同様だった。

 七十年の間に平和ボケという形容まで出るほどに戦争を知らない世代ばかりのこれからの時代は、個々の心の、その人にしか分からない、否、本人でさえ掴みきれない葛藤こそが意味を持ち、内なる苦悩から外を見つめることで、不用意に他者を傷つけない社会に僅かでも近づけるのではないか、などと年のはじめに思い立つ。











2017年10月6日

名月の森



 仲秋の名月に、人はどうしてこうも惹かれるのか。毎年その宵だけは特別な過ごし方をしたくなる。北陸の秋、滅多に見られない十五夜が顔を出すならと、二年ぶりのチブリ尾根へ。名月の森を歩くことにした。

 とは言いつつも、深夜の誰もいない山奥をとぼとぼ歩く己れの姿を想像するだけで、実は今でも単純に怖さが蘇る。ところが実際に歩いて、ヘッドランプの灯を落とし、辺りを見渡し、森閑たる闇に包まれてみると、実に不思議なことに、これを安らぎというのではないか、とも思える感覚に浸っていた。むしろカサコソと落ち葉を踏みながら歩いているその時間に、恐怖感にも似たいささか落ち着かない気分に包まれた。だからだろうか、キョロキョロして気を紛らわせ、まるで見つけられるのを待っていたかのような場に出くわすと、ほっと一息、胸を撫で下ろすことになる。三脚を立て、静止する長時間露光の間、日常を離れた、どこか遠い、ちがう世界に立っていることを、どうやら喜びとして感じていた。

 歩くことに始まる動作、行動の類は、動物が生きるためには不可欠な要素だろうが、動くことが生きること、というわけでは決してない。寂として佇むことができる人間には、野生が獲物を見据え構える姿勢とは随分ちがう、高度な精神性が宿っている。生きることとそれは、かなり重要な繋がりを持ち、生きることの支えにもなり、加えて死にさえも何らかの力を発揮するのではと思える。

 昨晩、病床に伏せっていた旧友がこの世に別れを告げた。久しぶりにこのブログを書く気になったのも、そのせいだろう。

 末期の食道癌と診断され、抗癌剤治療のために入院している間、三度見舞った。久しぶりに顔を合わせるや、「お前の方こそそんなに痩せて大丈夫か」と却って気にかけてくれ、「何だか治るような気がするよ」とまで言って爽やかに笑っていた。二度目の折は、抗癌剤が体を傷つけているのだとかで、打って変わって元気がなく、試食用に持参した酵素玄米を手渡し早々に引き上げた。三度目は、ほんの数日前のこと。ぐったりとして、息苦しそうで、何度も痰を取り、なのに自分を元気づけようとでもするように、あいつらしく冗談もこぼして、これからはもっと頻繁に見舞ってやろうと思い直した矢先だった。

 無声音でしかも含み声だから、この頃遠くなった耳には聞き取れなくて、ろくに会話にならず、それではと足を揉んでやった。気持ちいいのかどうでもいいのか、表情を変えることもなく、それでも、こっちも揉んでくれとばかり足の位置を変えたり、半ば眠るようにして。「お前どこでそんな技、覚えたんだよ」。「足揉みのことか。昔からだよ、家族の足揉み」。今思えば静かで、いい時間だった。

 友が差し出す手を、そうするしかなくて自然に握った。「よくわからんけど、男の手でもいいから握っていたくて」。そうか、悪かったかな、と答えて、ひととき黙ったままで固く結び合った。力を入れたり抜いたり、震えたり、無意識にそうしていたような、それとも、生者には分からない、死を前にして感じているものがあり、静寂に包まれた個室で友は手からそれを伝えようとしていたのか。でもそれは、友のように、何だかよく分からんものなのかもしれない。

 不安、不気味、恐怖などというものは、なるべくなら遠ざけていたい感覚だろうが、それらを超えてでも覗いてみたい世界も確かにある。日常という現場に埋もれるのではなく、たとえ日常であっても、己れの内なる深みを旅するようなひととき、あるいは揺れる心の動きや言葉をつぶさに感じ取る意識。それらがどんなに醜いものでも、吐きそうなほど忌み嫌うものでも、否、だからこそ深い水底へと誘うとば口を持っていそうな、そんな世界が、日常に隣るものとして常に横たわっている。

 友は最後には癌患者だったが、それが自分の全てではないとも言った。あいつは多分、大勢の友が集って笑った店で、もちろん病院ででも、静かに一人旅をしていたにちがいない。これからもきっとしばらく続けるんだろう。

 懐かしい。あいつとは何度も海外を旅した。当時頻繁にあったタウン誌の取材でのことで、何をしても自由、動いたまま、経験したままを撮り、記事にして、まったくもう、スリルがあって楽しくてしようがなかった。という同じ時空を生きた仲だから聞きたかったことがある。今どんな気分なんだよ、って。

 合掌。