2018年1月17日

葛藤という関係


 Twtterで見かけて思い出し、書棚の奥から引っ張り出した石川達三『生きてゐる兵隊』。四十年も前の学生時代、アパートの近くにあって何度か覗いた小さな古本屋、確かあてがわれただけの読みもしない写真の教本を売り払い、興味本位で代わりに買った。敗戦間もない昭和二十年十二月発行、定價が四圓五十錢、河出書房の自由新書とある。小口や扉には中村姓のスタンプがやや擦れて見え、触れるのを躊躇してしまうほどに黄ばんで所々に染みが浮かび、小冊子ほどの体裁の割にはさもこの家にも古書があるのだと言いたげな顔をしていた。読み始めてどうやらこれが初めての出会いだと分かった。生きている間に気がついてよかったなあと、まさかのタブレットの世の中で、慈しむような気持ちを抱いて、年の瀬の数日、静かに読み進めた。

 著者が中央公論社の特派員として中国大陸に赴いたのは昭和十三(1938)年一月、南京事件に関与したといわれる第十六師団三十三連隊に取材し著したのがこの小説で、同年三月、中央公論に発表されるや、無防備な市民や女性を殺害する描写、兵隊自身の戦争に対する悲観などを含む四分の一が伏字削除されたにもかかわらず、「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」などとして、掲載誌は即日発売禁止の処分。執筆者、編集者、発行者の三者は新聞紙法第四十一条(安寧秩序紊乱)の容疑で起訴され、著者は禁固四か月、執行猶予三年の判決を受けた。(ウィキペディアより) 開いてすぐの「誌」は、「この作品が原文のまゝで刊行される日があろうとは」ではじまり、発刊に到るまでの経緯と筆禍を蒙った著者の感慨が、自らにもささやくように綴られている。

 「この作品によって刑罰を受けるなどとは豫想もし得なかつた。若氣の至りであつたかも知れない。たゞ私としては、あるがまゝの戦争の姿を知らせることによつて、勝利に傲つた銃後の人々に大きな反省を求めようといふつもりであったが、このやうな私の意圖は葬られた。そして言論の自由を失つた銃後は官民ともに亂れに紊れて遂に國家の悲運を眼のあたりに見ることになつた。今さらながら口惜しい氣もするのである。」

 だが読後に感じたのは、これがあるがままの戦争の姿なんだろうか、というある種の疑問だった。確かに罪もない庶民が虫けらのように残虐に、しかもあっさりと殺され、けれどどこか坦々として描かれているのが不思議な気がして、大きな戸惑いとなったその思いを抱えて読むことになった。末尾の「附記」には、「本稿は實戰の忠實な記録ではなく、作者のかなり自由な創作を試みたものであり‥‥」とある。どこまでが事実で、どこからが創作なのか、小説とはそういうものだと言われれば頷くしかない。この一言で、あるがままの姿を迫真という表層に収めることも可能になり、曖昧だ、とつい感じてしまうことにもなるけれど。そう言えば、抑制を利かせることは小説を書く上の重要なポイントであることを一年ばかり学んだ丸山謙二塾で知ったばかり。

 南京が陥落したのは、著者が南京入りするわずか二週間前の昭和十二(1937)年十二月十二日。ウィキペディアの『生きてゐる兵隊』の項に興味深い記述がある。著者は「入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき、街上は死体累々大変なものだった」と自らが見聞した虐殺現場の様子を詳細に語っている一方で、「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」とも。今さら仔細の分かるはずもなく、そして物語の中で大虐殺は一文も触れられていない。

 金沢で自主上映された『南京!南京!』という映画を観たのもこの十二月。小説とは大きくちがい、ひとり監督個人に留まらず役者はもちろん様々な役割を担う大勢の人が関わっている。公式サイトを見回して、映画作品をなすための複雑さにたじろぎ、観た感想をここに一言で書き留めることを躊躇ってしまう。

 映画はもちろん演劇や小説など、題材が戦争ともなると今は実体験に基づくものは限られている。『南京!南京!』では、監督と役者が日本兵の葛藤を表すための演技や台詞をせめぎ合うように検討したことが記されている。たとえ架空の人物のものだとしても他者の経験の、それも微妙に揺れる内面を表現する難易度の高さは容易に想像できる。だからこそ、葛藤している姿は描けても、全体何にどんな風に苦悩しているのかという核心となる具象を感じられないもどかしがついて回った。それは『生きてゐる兵隊』でも同様だった。

 七十年の間に平和ボケという形容まで出るほどに戦争を知らない世代ばかりのこれからの時代は、個々の心の、その人にしか分からない、否、本人でさえ掴みきれない葛藤こそが意味を持ち、内なる苦悩から外を見つめることで、不用意に他者を傷つけない社会に僅かでも近づけるのではないか、などと年のはじめに思い立つ。











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