『心身の神癒』の第一話、ほぼ冒頭に「愛は鉱物における親和力である」という一節があり、月明かりの白山の頂で過ごしながら、山というより、まるで取り憑かれるように、圧倒されるばかりの岩ばかり見て、この言葉を思い浮かべた。白山は活動度が低いとは言え、1659年の噴火を最後にした活火山の一つに数えられている。御前峰山頂に浮かび上がる岩にふれると、冷たいはずのその肌に温もりが感じられるような、不思議な気分にさえなる。硬い鉱物がどのように形成されたものやら、想像すら届かないけれど、風雨に晒され、雪に埋もれながら長い年月を生きている、と言っていいのかもしれない、鉱物もまた愛の一つの現れであるなら。
愛とは、などと言葉を並べたところでどうにもならない、鉱物にある親和力が人にもあるのだと思いがおよび、どうやら愛は生きるものなんだろうと、己れの出来不出来はともかく確信のようにして感じとることができるのは、やはり白山の岩と一晩過ごしたからだろうか。
明け方までまだしばらく時間があり、疲れて、仰向けで横になるのにちょうどいい岩に出会い、ゴロンとするや、一気に眠りに落ちてしまった。数分にも満たない時間だったろうに、ブルっと震えて目が覚めゾクゾクと寒気が治らない。眠るんじゃない、と顔をひっぱたくシーンを映画か何かで観た、あれはこれのことだったか。凍傷の危険と隣り合わせの極寒の高山などとは比較のしようもないが、未明の白山にひとり佇んでいることを十分に感じ、ちょっぴり心細くなった。その岩の横で、熱を生み出そうと、全身を上下に左右に思いっきり振動させた。十分ほどか、ようやく落ち着き、もう一度岩を見つめ直す。
噴火で吹っ飛んできたんだろうか、大小様々な岩があちこちにどでんと居座っている。白山は愛でできている、そう思うと、このまま眠り込んでもいいような気もして、でも、ご来光を待つのはやめて帰ろうかなと思い出した。岩に愛、人にも愛がある、下山の道へと歩き出した。「人にあって愛は愛情となって表れる。」
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