仲秋の名月の宵、数年ぶりに白山の頂を歩いた。ところどころ風が冷たく吹き荒れ、これがこの人生で最後かもしれないと挫けそうになり、岩陰に入ると正反対に無風状態で、居眠りしそうなほど安穏として、ふるさとの霊峰は実に気まま、佇む人は吾一人ながらその気ままな大自然に抱かれる気分を分かち合う相手は、意外にも間近に感じられた街灯り、どこの町だか、食卓を囲む家族団欒、夜に働く人もいて、愛する人を喪い泣き崩れているシーンまで浮かんできた。霊峰白山は、こうしてすべての人の営みをいつも見守っているのだろう、そうとしか思えなかった。
ピンホールカメラで撮ってみたい風景の中で、これでは露光時間は一時間でも足りないだろうと、セットした三脚の傍で気功でもしようと試みたものの、どうにも気分が乗らない。わざわざ練功して大自然の気と交流するおかしさというのか、すでにその深淵なる気に抱かれているではないか、なんとなれば溶け込んでしまえるほどに。
気功とは、日常でこそどうやら必要なようだ。雑然とした暮らしの中でこの白山という聖域を想い、その気とふれあう、そのために今このひとときの味わいに浸りきる。なんとありがたいことか、頂で感じるのと同様に、常に人は見守られている。
ずっとこのまま山に居たい、ここで生きていたい、もしもそうなったとしたら、どんな気分だろう。仙人になりたいとは思わないが、世渡りなどこれっぽっちも望んでいない。だからだろう、向上心というものをほとんど持ち合わせていない、なんとなく、生きてきた。そう思うと泣けてくる。白山、あなたのせいだ。
それにしても日常からだととても遠くにある白山が、今これを書きながら不思議なくらいに近くに感じられるのは、やはり見守られているからだろう。気功は、その気になることを助けてくれる。
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人間はなぜほかの生き物とちがうんだろう。悩み、苦しみ、泣いて、悲しみ、夢とか希望が必要で、働き稼いで、利害損得を計算し、奪い合い、虐げ、あげく積極的平和というものまで掲げてしまう人間の一人であること、山にいると、ことに名月の頂きは、自分をも見つめる本当に特別な時間になる。
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