福島県天栄村を舞台にした米作りの物語、映画『天に栄える村』を観た。物語は3.11を前後して展開、話を大仰に表現してみせこともなく、むしろ村人の揺れ動く心境と真摯に取り組む姿を淡々と、でもていねいに描く、とても良心的なものだった。映画のあとはその取り組みを支援する役場の担当者の話があり、話を聞いているうちに会場で販売されていた「天栄米」まで購入する気になった。配られたおにぎりは甘みさえあり実に豊かな味だった。日本一を決める食味コンクールでこれで6年連続の金賞を獲得しているそうだ。
一向に収束される気配がない福島原発事故は、大勢の人の心や生活を混乱させたままだ。政権を取り戻した自民党は原発再稼働へと舵を切るつもりのようで、ますます庶民を混迷の底へと陥れる勢いだ。なのに、この映画に登場する天栄米栽培研究会の取り組みに迷いはなかった。作付けを中止した自治体もある中、線量が際立って高かった天栄村なのに、いち早く、諦めずに米を作るのだと決めた。大きな勇気と決意が必要だったろうが、思えばその決断は、人としてとても自然で、誠実で、普通に当たり前の、まさに庶民が生きるとはこういうことなんだと示しているような気がした。
農家が米を作らなくなったらおしまいだ、との思いで再び立ち上がった村人たちは、事故以前のように放射性セシウムに汚されていない米を作るために試行錯誤しながら様々な取り組みを展開、収穫後はすべてを検査、国が決めた暫定的な安全基準どころか、10ベクレル以下の検知ゼロを達成し続けている。
どうやら人の価値とは災難に遭遇するような緊急事態でこそ問われ、発揮されるようだ。7、8年ほども前から日本一おいしい米を作ろうと取り組んだ天栄村の姿勢を、放射能さえ変えることはできなかった。中には、幼子を連れて実家の兵庫に一避難していた農家の主婦が天栄村に戻り、さりげなく答えた。「わたしはもう福島の人間。ここで少しでも安全を心がけ暮らしていきます」。福島に留まることを賞賛するという意味でなく、自らの意志で選び取る態度に感銘を受けた。しかも肩に力を感じさせない、それが当然でしょうとでもいうようなおおらかでやさしい力にあふれていた。実際の不安はこんな他人にはわかろうはずもないけれど、もしも同じ境遇に置かれたなら、自分もそうしたいと思えるほどにそれは美しい決意だった。
映画のあとの担当者の話もまた、とても自然でさりげなく、しかも力強かった。収穫した全量を検査しつづける労力とはいったいどれほどのものなのか想像もつかないけれど、「すべてはデータで裏付ける。そうすれば消費者に信頼してもらえるかもしれない」との言葉には迫力さえあった。こうまで言われてそっぽを向いていたのでは、同じ日本人としてあまりに情けないだろう。さらに映画の農家は言った。「原発や放射能は日本全体の問題なのに、福島だけに責任を負わせているのかと思いたくもなった」。そんなとき福島では言うそうだ。「さすけねー」。意味は、苦にしない。
福島の子どもたちとの保養キャンプを開こうと思いついたのは、もしかすると唐突なことではなかったようだ。原発事故とその後の状況は日本のあらゆる人の心を揺さぶり、その裡に抱えている種を目覚めさせたんだろう。この凡夫も種のひとつやふたつを持っていたようで、その芽のひとつがキャンプとなって現れた。そんな気がする。災難こそがきっと人を目覚めさせるのだ。さすけねー、かぁ。いい響きだ。力が湧いてくる。
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