2013年12月16日

天に栄える村

 福島県天栄村を舞台にした米作りの物語、映画『天に栄える村』を観た。物語は3.11を前後して展開、話を大仰に表現してみせこともなく、むしろ村人の揺れ動く心境と真摯に取り組む姿を淡々と、でもていねいに描く、とても良心的なものだった。映画のあとはその取り組みを支援する役場の担当者の話があり、話を聞いているうちに会場で販売されていた「天栄米」まで購入する気になった。配られたおにぎりは甘みさえあり実に豊かな味だった。日本一を決める食味コンクールでこれで6年連続の金賞を獲得しているそうだ。

 一向に収束される気配がない福島原発事故は、大勢の人の心や生活を混乱させたままだ。政権を取り戻した自民党は原発再稼働へと舵を切るつもりのようで、ますます庶民を混迷の底へと陥れる勢いだ。なのに、この映画に登場する天栄米栽培研究会の取り組みに迷いはなかった。作付けを中止した自治体もある中、線量が際立って高かった天栄村なのに、いち早く、諦めずに米を作るのだと決めた。大きな勇気と決意が必要だったろうが、思えばその決断は、人としてとても自然で、誠実で、普通に当たり前の、まさに庶民が生きるとはこういうことなんだと示しているような気がした。

 農家が米を作らなくなったらおしまいだ、との思いで再び立ち上がった村人たちは、事故以前のように放射性セシウムに汚されていない米を作るために試行錯誤しながら様々な取り組みを展開、収穫後はすべてを検査、国が決めた暫定的な安全基準どころか、10ベクレル以下の検知ゼロを達成し続けている。

 どうやら人の価値とは災難に遭遇するような緊急事態でこそ問われ、発揮されるようだ。7、8年ほども前から日本一おいしい米を作ろうと取り組んだ天栄村の姿勢を、放射能さえ変えることはできなかった。中には、幼子を連れて実家の兵庫に一避難していた農家の主婦が天栄村に戻り、さりげなく答えた。「わたしはもう福島の人間。ここで少しでも安全を心がけ暮らしていきます」。福島に留まることを賞賛するという意味でなく、自らの意志で選び取る態度に感銘を受けた。しかも肩に力を感じさせない、それが当然でしょうとでもいうようなおおらかでやさしい力にあふれていた。実際の不安はこんな他人にはわかろうはずもないけれど、もしも同じ境遇に置かれたなら、自分もそうしたいと思えるほどにそれは美しい決意だった。

 映画のあとの担当者の話もまた、とても自然でさりげなく、しかも力強かった。収穫した全量を検査しつづける労力とはいったいどれほどのものなのか想像もつかないけれど、「すべてはデータで裏付ける。そうすれば消費者に信頼してもらえるかもしれない」との言葉には迫力さえあった。こうまで言われてそっぽを向いていたのでは、同じ日本人としてあまりに情けないだろう。さらに映画の農家は言った。「原発や放射能は日本全体の問題なのに、福島だけに責任を負わせているのかと思いたくもなった」。そんなとき福島では言うそうだ。「さすけねー」。意味は、苦にしない。
  
 福島の子どもたちとの保養キャンプを開こうと思いついたのは、もしかすると唐突なことではなかったようだ。原発事故とその後の状況は日本のあらゆる人の心を揺さぶり、その裡に抱えている種を目覚めさせたんだろう。この凡夫も種のひとつやふたつを持っていたようで、その芽のひとつがキャンプとなって現れた。そんな気がする。災難こそがきっと人を目覚めさせるのだ。さすけねー、かぁ。いい響きだ。力が湧いてくる。

http://image-fukushima.com/










2013年12月12日

背中の未来



「狭いながらも楽しい我が家」ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ支援マーケット。

https://www.facebook.com/events/221858771320334/?fref=tck

 去年の冬のキャンプで子どもたちに昔遊びを教えてくれた瑞江さんが、自宅を開放してガレージセールを開き、収益金をFKキッズキャンプに寄付してくれます。そんなのどこでもやってるんじゃない?と思うでしょ? とんでもありません。放射能に悩まされる子どもたちを思う気持ちが強くても、幼い我が子を育てる若いおかあさんにとって自由に行動できる時間や場を確保することがどんなに大変か、ちょっと想像すればだれにもすぐにわかります。そんな暮らしの中でのこの、「狭いながらも楽しい我が家」ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ支援マーケットです。所狭しと並んだ品々と、そこにあるぬくもりの輪を楽しみたい方、ぜひ一度足を運んでみてください。ジジイのぼくは気恥ずかしくて、女性の輪の中にはとてもじゃありませんが顔を出せない…(苦笑)。

 二年目を迎えたFKキッズ交流キャンプに参加する福島や石川の子どもたちの仲が深まるのはもちろんですが、実はそれ以上に応援するおとなの輪がまるで自然現象のように静かに広がり深まっています。「ねえジャイアン、福島キッズとキャンプしない?」と投げかけたひと言は池に投げた小さな小石でしかありませんが、そこから広がる波紋の美しさと言ったら、その輪の中にいてこそ感じられるもの。外から見ているだけでは、世の中の事象は単なる現象でしかなく、理解したつもりでもすぐに消えて忘れ去ってしまいます。生きるとは事象に飛び込んで行動することでもあるのだと、行動してはじめて実感しています。

 3.11以降、福島ばかりか東北関東一円の至る所で高い線量の放射線が観測されています。報道されないだけで、事態は一向に改善されていないことをだれもが不安に感じているでしょう。オリンピックだなんだと喜んでばかりでは、こんなになってしまった日本の庶民としてどこかに大きな欠陥があると言うしかありません。福島原発事故の原因がなにひとつ解明されないままに、再稼働への動きが鮮明になる雲行きです。またいつ起こらないとも限らない原発事故(人為的な事件かもしれませんが)の責任は、結局だれひとり取れないことが、あるいは取ろうとしないことが明確になりました。

 キャンプは子どもたちを思い開いています。その子どもたちは海や森のフィールドを飛び跳ねながら、実は共に生活するおとなたちを無意識にでも注意深く観察しています。応援することが一方的な押しつけになってはいないか、教え導くなどと傲慢になっていないか、気分だけで行動し感情を露にしていないか、などと、個人的に気をつけたいことが山ほどありますが、それらも子どもたちと真剣に過ごすキャンプがあればこそ感じることです。人間関係とは、お互い様のようです(まことにジジイらしいことを感じるようになりました、笑)。未来とは、人と人が交わりふれあう間(あわい)にすでに存在しているのかもしれません。広がる波紋の中で揺れながら、その形がうっすらと見えている気がするのです。

 おとなは、その生き様を子らに背中で見せる。古くさいと言われようが、年を取りながらますますそう感じています。背中に未来を背負いましょう。