2022年1月5日
言葉の陰にあるもの
創る家族
秀夫さんと優ちゃん、なんとも味のあるこの二人の友人、彼らとの出会いはもうかれこれ十年ほども前になる。我が唯一の作品と言ってもいい『風の旅人』43号に掲載された「生の霊」の写真を見た二人が、彼らの結婚式の撮影を依頼してきたのがはじまりだった。今では二人の子に恵まれ、農を中心に据えた、一段と味わい深い暮らしを営んでいる。地域を巻き込んだ活動の場を創ろうともしていて、数家族の友人知人とともにぼちぼちと動き出している。その様子を撮ってほしいとの要望に応えたつもりが、なんのことはない、これはこれから勤しむべき我が作品作りの場でもあるのだと自ずと気づかされた。
そうだった、東松照明にあこがれて写真を始めたころ、人を撮ってみたいとの夢があった。それが、初めて体験した撮りたい、撮らねばならないという衝動から生まれた「生の霊」で結実。それ以降は、何のために撮るのか、なぜ作品として捉えるのか、テーマは考えるものなのか、などと頭の中はぐるぐると下手な考えで堂々巡り、心は写真から離れるばかりで、もはや写真家を志す人生は終わったのだと決めつけていた。
二人が営む渡部建具店は先代までの家業で、今は屋号のみを受け継ぎ、中身はもしかすると見えない何物かをこつこつ組み立てるように創造しようとしているのかもしれない。その最たるものが家族、または暮らし。昨年から二度ほどお邪魔して、その感覚はさらに強まった。
家族。この頃痛いほどに心を締めつけられるのは、「生の霊」を演じた実の娘との間についに罅が入ったからで、家族とは全体何なんだろうと振り返らないでは済まされない状況に陥った。このタイミングで渡部さんのご家族とふれあうのは、おそらく必然にちがいなく、彼らの温もりと我が身の内の寒々しさとを対比しながら、一歩一歩と心の旅を深めてみたい気がする。
優ちゃんの一声で、晩秋に子供たちの歓声で賑わった田畑へと出かけた。またしても撮るというよりいっしょになって遊んだ。「ますやん」とニックネームで呼ばれると、福島の子供たちを招いて仲間たちと開いた保養キャンプを思い出し、ついつい遊びたくなる。しかも、まさしく純粋無垢な二人の姉弟ときては、遊ばないではいられない。見守りながら、関わりながら、共に場を創っているのがアーティスでもある母ちゃんだからか、いつとはなしに常に創造的な気に包まれている。この子供たちの十年、二十年先の姿が今から楽しみ、これではまるで田舎のおじいちゃんの気分だろうか。
心に入った罅は、悲しいけれど、たぶんもう取り除けない。だったらむしろ大事に抱えてみるというのはどうだろう。心の襞のように、顔中に広がる皺のように、生きた証にしてしまう。いささか負の方向ながら、これもまた創るということの一つに思えなくもない。