嘘、偽りが平気の平左で大通りを闊歩しているというのに、住人はおろか通行人のだれもがそれを止めることができずにいる。嘘をつかないやつなんていないと高をくくっているから咎められはしても嘘は知らんぷりでますます幅を利かせているのか、とにかくこの国はもはや目も当てられない惨憺たる状況で、言葉が、言葉そのものが、乱れて廃れて、広がるインターネットと実社会との境界はもやもやと煙に包まれ、どこもかしこも仮面を被った匿名だらけの暴言妄言で溢れかえっている。
などと想像していると、このちっぽけな心にいくらかはあったはずの潤いというものまでなくなり、カサカサと細胞は渇いて、頽れる味気ないばかりの感覚を抱えたまま、一日にせめて一篇ぐらいふれたいものと開く詩集。この頃は出会ったばかりの志樹逸馬、たとえば今朝はこんな詩にひとつ、深い息がつける。
土壌
わたしは耕す
世界の足音が響くこの土を
全身を一枚の落ち葉のようにふるわせ 沈め
あすの土壌に芽ばえるであろう生命のことばに渇く
だれもが求め まく種から
緑のかおりと 収穫が
原因と結果とをひとつの線にむすぶもの
まさぐって流す汗が ただいとしい
原爆の死を 骸骨の冷たさを
血のしずくを 幾億の人間の
人種や 国境を ここに砕いて
かなしみを腐敗させてゆく
わたしは
おろおろと しびれた手で 足もとの土を耕す
どろにまみれる
いつか暗さの中にも延してくる根に
すべての母体である この土壌に
ただ 耳をかたむける
志樹逸馬という詩人を知ったのも半ば嫌になっているインターネットのおかげで、お会いしたこともないけれど気になってTwitterでよく拾い読みする若松英輔氏編の『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房)、不思議なもので、人であろうと物であろうと気になる対象へと近づくことの繰り返しが人生のような凡夫でも、いつともなく、その恩恵を享け生きていることに気づかされる。
詩を読みはじめたころはどうやらひたすら理解しようと努めていたようで、物覚えの悪さも手伝って今日まで印象に残っている作品がなく、理解はあきらめ、言葉の奥にあるような詩人の世界を感じようとする旅、まさに旅の気持ちになってみると、音読する度にちがう感慨にふれたりもする。
この詩集には編者による詩人の解説や年譜があるものの、ハンセン氏病を抱えて生きた詩人の日常を事細かに知る前に、遺された詩の言葉そのもので出会いたい気持ちになった。
人が生きるとはどういうことなのか、考えても決して届きそうにない答えをずっと探してきたような気がする。詩人の生きた世界を幼な子のような目と心で覗いてみたい、などとこの歳になってまだ心を躍らせたいようだ。
詩集の巻頭には詩人のこんな言葉がある。
これを読む あなた方のかなしみからよろこびから
はじめてあたらしく生れた友情の指さした彼方へ 共に歩みたい
なんて優しい方だったのか。優しい人は世に大勢いるだろうが、見ず知らずの読者にまで馳せた友情という名の優しさほどあったかいものをほかに知らない。毎日一二篇の詩を読む声が詩人にも届いてほしいとの祈りにも似た願い事が芽ばえる、寂しいのかもしれない、この心。
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