2015年10月12日

デコ屋敷




 三春に行くんだったらデコ屋敷に案内してあげる、と郡山の友人ともこさんに誘われるがままに付いて行った。観光地にはさして興味は湧かなかったけれど、平日のせいか閑散として、村の往時を偲ぶにはうってつけの少し肌寒い日和。来てよかったなあとすぐに感じた。二三軒ある店の中をのぞくといつかどこかで見かけたことのある三春駒や色鮮やかな三春張子などの人形たちがぎっしりと並んでいた。案内文を読めば人形作りの起こりは三百ほども前で、観光化されているとは言えこうして今も脈々と当時のまま受け継がれていることに少なからず感動した。人形を作る集落があったなんて、できることならタイムトラベラーになって昔の様子を覗いてみたい気がした。各店にはつい最近まで看板むすめならぬ看板おばあちゃんがいらしたようで、絵付けをしている写真が飾られていた。

 仕事場を覗くと、頬っ被りをしたおばあちゃんがひょっとこの面に黙々と下地を塗っていた。懐かしいと感じたのはなぜだろうか。老婦が働く姿はいつどこで見ても美しい。何枚か撮らせてもらった。横で紙張りの仕事をしていた女性がいろんな話をしてくれた。おばあちゃんは八十を過ぎて、早朝の畑仕事を済ませたあと毎日四十分ほどかけてこの職場へと歩いてくるそうだ。この土地とよその町とではもしかするとちがう時間が流れているのではないかと思えるほど、なんとも豊かな、ゆるりとした心持ちになった。福島の知らなかった一面に出会い、またひとつ好きになったようだ。

 地球規模で流れる時間を捉えることができたらと、ふと思った。人が生まれ死ぬまでの時間はあまりに短い。けれど、一日なにものかに打ち込む人のそれには長短では計れない別の次元が存在しているのではないか。何十年とつづけてきた手慣れた仕事ぶりは俊敏だが、決して急いでいるわけでなく、むしろ時間が止まっている気さえした。不思議な土地だ、このデコ屋敷。

 二時間ほどもいただろうか。共に過ごしたともこさんとふたりの子どもたちに別れたあと、これからはまた新しい出会いを求めて福島を回ってみたいと思った。放射能汚染に悩まされる子どもたちを応援する保養プログラムが四年目に入り、いま初めて新しい気持ちになっている。生きている時間に、生きている時間だけではない、より広大な世界を覗くような旅をしてみたい、この福島で。















2015年10月9日

福島の日常




 「ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ」の同窓会に参加した折、郡山市内の幼稚園で開かれた写真教室の講師をつとめてきました。対象は若いおかあさんたち十数人。事前にお願いした課題の写真をみんなで鑑賞しながら感想や意見も交わしました。テーマは「家族の日常」。どの写真も、我が子を慈しむおかあさんのあったかなまなざしで捉えられていました。放射能汚染さえなければほかのどの町とも変わらない日常のシーンを見ながら、ちょっぴり複雑な気持ちにもなりました。

 折しも昨日、「福島の子供の甲状腺がん発症率は20〜50倍」という分析が公表されました。あれから4年と半年が過ぎ、福島の日常は昔と変わらないかのように営まれています。地域によっては除染土などを入れた黒い大きな袋が山と積まれる異様な風景が広がっていますが、人の暮らしはたとえ戦争にあっても営まれ、家族はより仲睦まじく生きていくしかありません。

 写真教室で伝えたかったことは、上手になるための技術的なアドバイスばかりではなく、撮る前にあるはずの、「見つめる」という態度でした。当然のように過ぎてゆく日常の風景でもよくよく見つめると、これまであまり意識に上らなかった発見とでも言えるような関係に気づけるかもしれません。大袈裟に言えば、親子の間柄に、人と人という関係を加えられないかと思ったわけです。

 写真に限らず絵画でも俳句でも、その道で表現するためには見つめることは欠かすことのできない大事な準備です。見えるものを相手にしながら、できることなら見えない何かに近づいてみたいのだと思います。

 我が子を愛おしむとは、どうすることなんでしょうか。よその子どもたちにまで目を配り思い遣るときそこに慈しみのカケラでもあるなら、見えないけれど大事な関係がすでに生まれているのかもしれません。子どもたちの心や未来は、見えないものの究極の大事です。そんな思いを抱いて撮ることができたら。おかあさんだからこそ、撮れるような気がします。










2015年10月8日

福島の気持ち





 こんな日本にならなければ福島にはたぶん出かけることもなく人生を終えたにちがいない。ということは、福島の人に出会うこともなく、福島の人の思いを想像することもない。だれひとり望むはずのない原発事故が起こり、ネットの情報で知るかぎりではおぞましいばかりの危機から奇跡的に逃れることができたという。それでいま、福島にも少しずつ日常が戻っている。

 ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプがご縁で出会ったけんちゃんとやすこさんご夫妻に二本松の提灯祭に連れて行ってもらった。高さ十数メートルの山車七基がロータリーに並んでいた。大勢の見物客であふれ身動きさえできない。写真を始めたころ何度も能登の祭に出かけた思い出が蘇ってきた。あの頃の祭は、祭をする地元の人たちのための、神と遊ぶ祭だった。今では熱気を感じても観光イベント化した雰囲気がどうにも気にかかる。福島は、同じイベントなのになぜか大きなちがいを感じた。みんな心底楽しんでいる、それが表情から十分に感じられた。

 災難を乗り越えた人の、あるいは難題を抱えながらも前を向いている人の瞳はきらきらと輝いている。そばにいると心の中で脈打っているいきいきとした力が伝わってくる。現状は決して楽観できるものではなく、むしろ不安に苛まれる日が多いかもしれない。人生は哀しみでできているとさえ時に感じるけれど、生や暮らしの中には叫びや踊りがあり、歓喜もある。神々しいほどの笑顔だってある。「負けてなんかいられねえ」。そんな声にならない声を抱きかかえている日常がここにある。

 福島の人たちの気持ちを想像しながら何枚も撮った。関心の的は祭ではなく、祭を生きている人たちだということを、撮りながら確かに感じていた。「生きているってすばらしい」。ここでなければどこぞの安っぽいフレーズなのに、それが実感として迫り、目の前で踊っていた。