日曜の今日はチェックしておいた催しがいくつか重なっていたが、結局そのどれにも行かなかった。政治の動きなどにますます嫌気が差すこの頃だからぱぁっと気晴らしに出かければいいものを、けれど片時のイベントなどにはさして興味もわかないし、講演など聞いてもその後に行動しないならなんの意味があるか、などとぐだぐだしながら朝刊をめくるうちに大乗寺の座禅会が目に留った。三十代の頃だからかれこれ二十年あまりも前になる。日曜座禅会だけでなく修行僧にまぎれこんで日々の早朝の祈りのひとときに加わったこともある。なぜ人は座るのだろうか。瞑想のひとときに何か求めるものがあるのだろうか。三十人あまりの人が、しかも半分以上は若者たちが占め、互いに言葉を交わすこともなく二時間ほどを共にした。
大乗寺は、永平寺三代目住職の徹通義介禅師が開いた曹洞宗の古刹。国指定の重文でもある。境内に一歩踏み込むだけでいきなり場の気が変わるような気がする。重厚な山門にはいつも圧倒されるが、個人的に気に入っているのは、法堂の側面のどこか古風な家の軒下を思わせる庶民的な雰囲気だ。あったかな昼下がりなど椅子に座ってする読書の時間が好きだった。
何人もの人と座るひとときは、家の小部屋のひとりの静座とはやはり大きなちがいがある。ピンと張りつめた冷たい空気、合図の鐘の音が波打つように近づいてくる不思議な感覚、目的はそれぞれだろうにどこか通じるものがある参禅者。ところでなぜ座る気になったものか、座り出してもわからないままだった。浮かんでは消えて行く雑念というものもほとんど感じなかった。まったく面白みのない人間になってしまったかのように、ただぼーっと座っているばかりだった。
座禅後の法話は、肌黒い修行僧だった。スリランカから来日してまだ二カ月だという。たどたどしい日本語ながら、両国の仏教のちがいなどを話してくださった。中でも興味深かったのは、スリランカは大戦後、日本に賠償金を請求しなかったという話だった。その時のリーダーが世界に向けて宣言した言葉は、「憎しみは憎しみによって止まず、ただ愛によってのみ止む」。なんということか。国を荒らされ、大勢の犠牲者を出しただろうに、憎しみの過去を愛に変えてしまった人々がいた。どんな状況だったものか想像すらかなわないけれど、この言葉が持つ力なら凡夫にもずしんと堪えた。座禅ではなく、この話に出会いに来たのかもしれない。無為に過ぎて行く日常、徐々に精気が失せて行くのを感じる日々だったが、なんだか救われた気がした。愛とはほど遠い人間だとしても、憎しみや妬みや恨みなど、ひとつでもふたつでも脱ぎ捨てることができるのかもしれない。それらは己が頑固に所有するものではないようだ。この世に飛び交う雑念がたまたまこの身に宿っているにすぎないのかもしれない。