2026年4月11日

祈り(2)

 


 祈りについて、何年も前の昔にも考えた時期があるのに、その中身をまったく思い出せないということは、日々の暮らしの中に未だ祈りそのものが欠けているということかもしれません。もちろん正信偈を唱える仏壇や、近頃はジョギングの途中で立ち寄る身近なお宮さんで手を合わせ、毎度毎度「ありがとうございます」と感謝の言葉を添えてはいますが、ガンジスの大河のほとりで祈る人々の様子を思い浮かべるとき、なにやら大きなちがいがあるような気がしてしょうがありません。

 いったい何がどうちがうのか。たとえば祈りの対象とか、その対象との距離感。我が養生生活の基本に据えたエドガー・ケイシー療法で、そのケイシーが遺したリーディングの中に、言葉は正確ではありませんが「あなたが治すのではない、神が治すのだ」とか、「祈りとは神への問いかけ、瞑想は神から届くその返答」というような話があり、折にふれて神という言葉が浮かんできますが、はたしてその神という存在を確かなものとして感じているのか、甚だ怪しいもんです。

 ちがいは、祈りの深さ、あるいは身近さ、感謝の度合いか、などとあげているうちにすぐに感じたのは、そんなふうにぐだぐだと考えている自分自身へのこだわりが頑としてあること。それがどうも神と隔たる壁になっているような気がします。家にあった浄土真宗でも、南無阿弥陀仏はあなたが唱えるのではない、阿弥陀如来からいただいた心で唱える、という筋の法話を何度も聴いていますし。


 神との一体感の欠如、まずは己れのその状況を認めることから始まるようです。創造主と、神に似せて創られたという人間のその一人として、両者の関係に必要と思われる(一つ)という感覚が不確なのでは、けっして完全に委ねてはいない、どこまでも強固なこの自我、衰えはじめている肉体だからこそ、その内に棲んでいる魂の存在をいくらかでも意識するようになってはいますが、精神を含めて三つの体のまとまりや連携プレーがまだまだ成立していないわけで、ということは祈りもまた、ケイシーが言った愛とは練習で培うというのと同様、日々に重ねながら深めて行くものなんでしょうか。


 気功や、この頃熱心に続けている瞑想のひととき、それはまだまだ真似事に過ぎない領域ですが、いくらかでも深まった気分に包まれるのは、おそらく肉体という枠組みに緩みが生まれ、窮屈な思いをしていた魂が広がって行くような感覚でもあり、そのとき、ケイシーで学んだ聖書の一節や(祝福の水路)となるアファメーションを静かに、内にもささやくように唱えるようになりました。今朝は、それが、ガンジスの人々の祈りにも似ているような気がして、するとますます溶けていくような心地良さで、祈りとはもしかすると、なにもかもが溶けて無くなることかも、などと勝手な想像を楽しんでいます。


 そしてこの辺りを書いている今届いたケイシーセンターからの「珠玉の言葉」がまた符合するから愉快です。



リーディング 3342-1


人に平安と調和をもたらすには、その前に、自分の内に平安と調和がなければなりません。

There must be peace and harmony in self before ye can bring it to others.



 自分から、というより、これを個と世界には本来垣根などない、と理解してみました。世界などと大きく構えなくても、自他の区別を取り払うと、あれこれの悩ましさが薄らいで、やがて取るに足らないものとして消えてしまう、祈りの効用がさっそく出てきたような一日の始まりです。


 祈り、そして信じる心‥‥‥。がん病のお蔭で始めた養生生活に馴染んでくると、もしかすると人はそれぞれ様々な経験を積みながら、最後には祈りと信じる心を得て、もう一つの世界へと入る門の前に立つのでは、などと想像するようにもなりました。もう一つの世界とは、もちろん見えない世界、この世とあの世に架け橋があるなら、それを渡るための必携品の一つとしての、祈り‥‥‥、


 肉体は当然衰えますが、そのどこか片隅に新たに生まれたような何か、静かに優しく揺らめき、包む波のようなこの力感、本当に不思議ですよねえ、人間、そんな不思議を感じさせてくれるこのイノチ‥‥‥


 病はまさに、そのイノチを愛しい身近なものにしてくれました。