2020年12月2日

齋藤隆というドラマ


  
 絵画にかぎらずおよそ芸術の類を鑑賞してもほとんど何も感じていないのではと己れを訝しみ、そのあまりの鈍感さにいつも悲しい思いをしている凡夫にとって、おそらくこれが生涯にたった一度の感動と呼べるものかもしれず、理解する力を持ち得ない恥を晒す覚悟で、一言だけでも書き残すことにした。

 福島の友人に勧められて出かけた佐川美術館の地下の一角にそれは展示されていた。黒一色で描かれた人物、人間、否、魔、それとも幻? 一目見るなり、まさに目は釘づけとなり、下腹部のあたりを何者かに抉り取られるような、みょうに激しい動揺を感じ、その場に立っていることさえ辛くなる、ある種、近頃没頭している気功の快とは真逆の感覚、と言っても決して不快なのではなく、むしろ絵に見事に体全体を襲われてしまった、というのがもっとも近いかもしれない。

 題名は、齋藤隆『ドラマ(地の巻)』。一人の男の体からふわりと湧き出るような、これらはその分身なのか、様々な面を持つ人格というものなのか、それとも罪穢れ、あるいは業、そんな名前などどうでもいい、そのうち、描かれた男はまさにこの自分なのだと見せつけられている気がした。

 「人間が生きてゆく中でつかめるような物の本質、そいうものを表現したい」との画家の言葉を読んだ。

 人間として生きるとは、醜いことか、それともほんのわずかでも美しいと言える一瞬はあるのか、その一人として今日まで生きながら、確たるものは身の内のどこにも見当たらない。言えることはただ一つ、こうして動揺する生き物であることぐらいか。それは恥ずべきことか、それとも至極当然なことなのか、とにかく気づかない方がよかったとでも言いたくなるけれど、まあひと息つきなさい、とでも画家に言われているように、見てしばらく時間を置いたせいか、不思議にも今になって安堵のため息が漏れ出る。

 宇宙のスケールには比べようもないほどに、人の一生など芥子粒にもならない実に閃光のようなもの、そうして須臾の間でも光り輝くならまだしも、黒い男と同様に透けて、怪しく、軽々しく消えてゆくような人生を生きている者は、だからこそ、その実態を自らにだけは明らさまにし、描けないなら、もう一度撮り始める、画家のように孤高を生きる甲斐性はない、ましてや力不足は否めない、今はただ、この動揺を、むしろ誇りとすべきか、紛れもなく生きていたではないかと。

 それにしても、この静かなる迫力、無言の画家が見つめているまなざしの彼方に本質のようなものがあるとして、では本質とはなにか、人は幾重にも自らを重ねながらすぐにでも消えてしまう、では宇宙とはなにか、天体でさえも何十億年の長きにわたる生涯を終えるという。わからない、何一つ、わからないから旅をし表現もし、人は、黒く滲んで生きてもゆく。

 題はなぜ、ドラマなんだろう‥‥‥、