2019年9月12日

十年目のプレゼント



 何人かの親しい仲間が共同で贈り物をする話はよくあるだろうが、その贈り物が結婚祝いの記念の無料撮影券というのは滅多になさそうだ。ましてご指名を受けたカメラマンとなり、撮影料として三万円をすでにいただき、それが十年も前のこととで、いい歳をした頃合いになると、このまま撮らずに終わるのではと気になって仕方がなかった。モデルの友人に折にふれ催促し、ようやく実現。まるで夢がかなったかのような気分で、撮る方も撮られる方も、幸せな半日を過ごすことができた。

 十年ひと昔とはよく言ったもの、写真の環境を見ても隔世の感がある。今の気分からするとフィルムを詰めたローライでじっくり向き合っても良さそうなところだが、仕上がりはネットを介して作るアルバムとして設定し、お二人の希望にそったロケーションで、いろんな表情をパチリパチリとデジカメで何枚も撮った。撮影がどんな風になるのか想像もつかず気になるのはモデルとして当然のこと、抱えていたちょっぴりの不安を思いっきりよく裏切ることができたようで、最終的に手にするアルバムそのものはもちろん一番の楽しみ、さらに撮られる経験もプレゼントとなるようなひとときにしたかった、というわけだ。

 三十度を軽く超えた折からの残暑、二人とも汗びっしょり、それも十年の歩みがあるせいかどんなことも全てが味になるような気がした。別れ際に思いついて、十年を振り返った今の気持ちやお互いへのメッセージを書いてみたらと提案すると、忙しい僧侶の友人は一瞬戸惑いながらも、年内完成なら行けるかも、と承諾してくれた。想像するだけで、なんとも幸せな気分になる。この機会をプレゼントしてくれた福井の友人たちに感謝したいのは、むしろこのカメラマンの方かもしれない。この撮影が当時すぐに行われたなら、到底この展開にはならなかった。せいぜいが二、三枚の写真を台紙に貼るか額装するに過ぎなかっただろうか。これならもう三十万円ほどの価値、十年待った甲斐がある。

 それにしてもこの写真、お二人の今を表しているようで、実に興味深い。日が傾き出し、夫人のふるさとでもある越前の海がキラキラと輝いていた。ここがいいと車を止め、最後のシーンとして収めることができた。気功や整体にも精通している友人は、ちょこんと腰が引けて、それが丹田に力がこもっている姿勢にも見える。朴訥な人柄に惹かれたに違いない、なんとも幸せそうだ。










2019年5月2日

遺影写真を撮ります


今年は、いよいよと言うのか、待ちに待ったとでも言ってしまいたいくらいの、高齢者の部類に組み込まれる世代となり、単に年を食っただけの話でも、なぜかその資格を得たような気分で、念願かなって遺影写真家を名乗ることにした。温泉旅館の広告撮影や昨年からパートタイマーとして始めた就労継続支援事業のスタッフの立場があり、おまけに趣味程度の野良仕事に、何がしかのもの書くという夢までたずさえており、これでもかとういうほどごった煮状態の日常にあって果たして遺影写真の専門家になれるものか、我がごとながらふらふらと宙ぶらりんな残生を、今日までと同様に歩くことになりそうだ。
 
 掲載のこの一枚の写真を撮らせていただいたあの瞬間に、遺影写真という分野が明確に目の前に現れた。当時の日記にその思いが滲んでいる。

 「いつの日か遺影写真を撮りたいと思うようになって随分と経ってしまったのは、命の何たるかを知らないで到底撮れるものではないと思っていたから。その心の重い扉を開けてくださったのが、この渡部さんだった。建具屋の三代目として生涯家業を営まれた。ご子息の結婚式を撮影した翌朝、撮らせてもらいたいと胸の鼓動を抑えて願い出た。ああ、いいですよ、意外にも軽く答えられるや、ゆっくりとパジャマの上着を脱がれた。ベッドの上で過ごす時間が一日の大半を占めているようで、弱々しい老人の姿を前に、撮りたいと思ったはずの気持ちなど跡形もなく消えてしまった。
 撮影前のほんの数秒間、目と目を合わせた。いきなりファインダーを覗くなど無礼なことだと無意識にでも感じたのかもしれない。老いとはどうやら枯れて行くもののようだ、なのに、あの瞳の奥で鋭く、しかもほのぼのと光るものはいったい何だったのか。フィンダーの中の渡部さんがこの小心者を圧倒し、睨まれた蛙のように、心にもレリーズボタンを押す手にも緊張が走った。職人の魂などと簡単な一言をしたり顔で使うわけにも行かず、長い年月を歩いて来られた果てのその最晩年に出会っているという、ただただ静かな感動に包まれた。」

 あの日から六年ほども経った。だから、ようやく、いよいよという気持ちになっているのかも知れない。相変わらず、命の何たるかなど知る由もなく、職人にも、写真家にも、ついには結局一人前の人間にはなれず、このまま終わることはほぼまちがいなく、切羽詰まって動き出すしかないというのが本音というところだろうか。

 まあ、いいさ。人間に完成や完熟があるとも思えない。

 同じ頃、おやじについても書いていた。

 
「定年退職後に関連会社の社長職に納まり、仕事一筋と言えば聞こえは良いが、本当に仕事上のつきあいしかなかったようで、今では日がな一日テレビの前に座りつづけ、まるで切り株のような人になっている。それで何の苦痛もな不平不満もないらしく、これが意識してのことならまさに覚醒した人に思える。
 昔話を聞いておきたいからと、おやじと最後に飲みに出かけたのはもう何年も前、今ほどの物忘れもなく、いろんな話をしてくれた。軍隊に志願したのは少しでも人の上に立つため、と言いながら伍長止まりで、時折差別的な呼称で隣国を呼んでいたのを思い出す、極々普通のどこにでもいそうなありふれた日本人だった。
 県の職員時代に汚職の前科があった。その顛末を聞いておくのは息子の務めだとも思った。『なあに、あれは業者に呼ばれビールを一杯飲んだだけ。あん時の上役が行けと言うから行ったまで、まったく馬鹿な話や、新聞はあらぬことを書き立てたしなあ。』どこか懐かしそうに話したおやじの言葉を息子は信じるつもりだ。世の中の動きなどに何の疑問も感じない、愚直で馬鹿正直な人だったのか、せめてこの世に一人ぐらいそれを誇りに思う人がいていいはずだ。
 たまにレンズを向けると、小さくはにかんでみせる。撮る撮られることを通した、これも父子の会話だろうか。」

 その父も、昨夏天へと召されて逝かれた。死者ともなれば、生前には思いもつかなかった敬う気持ちに包まれる。遺影写真にするつもりで撮った縁側での写真が親戚連中に妙に評判が良く、毎日恩着せがましく眺めては、話しかけている。

 写真の力の一つはその記録性にあるが、静止した画像の中から浮かび上がる実に様々な思いがますます見つめる者の想像力を膨らませ、あの世でもこの世でもない、その間(あわい)を埋めるような不可思議な力こそ、唯一最大のものではないだろうか。ことに、遺影写真というより、食卓で何気に撮ったこの一枚のような、生きていることに、ましてや撮られていることなどにまったく頓着しない瞬間に、ああ、あの父がいるような気がしてしようがない。

 どうせなら、撮るために出かける遺影写真の撮影場所でも、お互いに生きていることからほんの少しでも離れられるような時間を過ごしてみたいもの。

 何のために生まれてきたんだろう、死までの刹那、宇宙の営みからすればまさに閃光でしかない塵のような日々の中に、溢れるほどの思い出が詰まっているなんて、夢だろうか、ほんとうに夢、なのかも知れない。


遺影写真館 言の葉とともに
https://kazesan63.wixsite.com/iei-kotonoha










2019年1月1日

巫女の舞


巫女になった孫娘の鈴のお祓いを
何度も浴びて、今日この日から
何ひとつ怖れることなく
安心して暮らそうと決めた元日。