2018年12月29日

清浄な人

 タイはチェンマイ、ラオスはルアンパバーンでひとときを過ごし、インドシナ半島に俄然興味が湧いてきた。それも都会ではなく、USATOの生地を生産する村々のような素朴な土地を何年もかけて歩いてみたい、などと金ももはや残された時間も乏しいくせに、せめて夢として抱えることにした。
 その南国から帰って翌日、早速もう一つの仕事に従事、就労継続支援事業のスタッフとしてホテルのバストイレ清掃に取り組んだ。この仕事は単純作業の一つだろうか、慣れてくると様々な思いがい浮かんで実に豊かな時間になる。洗面台を磨き、コップを洗い、バスタブをこすり、トイレの隅々に目を配るうち、滞在した羽田やラオスのホテル、USATOのゲストハウスの同じスペースの清掃具合を思い出す。
 部屋の清掃は、それに打ち込んでみると、見た目に綺麗というだけでは足りないのかもしれない。一見しただけでは気づかない、たとえば鏡や床の隅、敷居に当たるステンレスやガラス扉にこびりついた水垢、トイレの蓋の裏、排水溝の網の目、点検する箇所は小さなスペースといえどあれこれとあり、そのどれもが完璧に美しくなる時、清掃したのではなく、浄化と言っていいような気がするほどに満ち足りる。
 それでまた思い出したのが、ルアンパバーン郡のある村、あれは公民館のような建物でそのトイレの簡素な作りと、水で満たされた小さな風呂桶のような囲い。排泄した汚物を囲いの中の水を桶で汲んで流すだけ、床もスリッパも半ば水浸し、どうにも綺麗とは言い難かったが、けれど慣れれば多分これ以上何も必要のない美しさがあったのかもしれない。水浸しと思ったのは足が濡れる不快感を避けるためだろうが、村の誰もがみな裸足で草履、上り框の下には厚い布製のマットがあり、何不自由もなく部屋に入って行けるわけで、南国の自然に合わせた自ずからの清らかなつながりあると言えなくもない。
 人の暮らしは、文明開化のなれの果てにたどり着いた贅沢な家や環境にあるのだろうか。清める、浄めるという観点が清浄ではない状態をそう為らしめるためにあるとすれば、手を下さなくても清らかな環境をさらにほんの少しの心配りで整えることができるなら、それをこそ人としての美しさと言いたい。
 清掃は汚れを取り除くだけの話で、清掃しなければ追いつかない過剰な文化からは遠く、清濁を併せ持ちその中で営む暮らしと、それを暮らす村人の純朴な微笑みにふれるとき、現代はとてつもなく大事なものを失ってしまったのではないか、などとつい思ってしまう。
 あの村この村の清浄な人々の笑顔がまた浮かんでくる。人としての大事なものを意識することなく抱えているようなあの笑顔が。